荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ノーカントリー』 ジョエル&イーサン・コーエン

2008-04-30 02:24:00 | 映画
 コーエン兄弟は本作において、一見してすぐに反米映画を撮ってしまったことが分かる。〈老人にとって国と呼べるものはもうない〉と本作の原題が語るように、一連の血生臭い殺人における、動機の不可解さと犯行の残酷さについて、トミー・リー・ジョーンズ扮する老保安官が、すでに引退した先輩とパーキングレストランで諦めがちに語りあう。もはや自分たちには、事件を解決する方法も力も持っていないばかりか、事件のありようを理解することさえできないのだ、と。しかもこの映画は1980年を舞台にした作品であり、現在よりも30年近く昔の物語なのである。『AVP2 エイリアンVS.プレデター』の評の時にも書いたが、保安官という役柄はいったいいつから、こんなにも滑稽で無力な存在の象徴として扱われてしまうのだろうか? ではまた、現在は如何に?

 私はこれまで、コーエン兄弟の大ファンだという人に会ったことがない。私とてそれはそうだ。もうずいぶん前、「エスクァイア」誌からの依頼で、『未来は今』プロモーションのために来日したコーエン兄弟に、今はなき六本木プリンスホテルの一室でインタビューしたことがある。あの時は、えらく形態学的な話題で兄弟氏と盛り上がってしまったのだが、つまりそういうわけである。人はみなコーエン映画の形態が醸し出すしたり顔の作為に対し、首を横に振る。だが、それはコーエン兄弟が微笑みの作家ではなく、怒りの作家でもないからであり、仮面と張りぼてによって同時代と渡り合う作家であったことの証明でもあった。私は上で安直にも「反米映画」という語を使ったが、それは兄弟監督自身の欲望でもあると思われる。コーエン兄弟は〈何か〉からの引退を、反米映画の衣でくるんでみたに過ぎない。


日比谷シャンテシネ他、全国で公開中
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レアル・マドリー 3-0 アスレティック・ビルバオ

2008-04-28 19:21:00 | サッカー
 レアル・マドリーは今朝、アスレティック・ビルバオを3-0で下して、31度目の優勝にあと1勝と迫った。今シーズンのマドリーは、終始首位をキープしてきたものの内容的な評価は決して高いものではなかったが、今朝は、シーズンの最高の内容を見せてくれた。ここへきてようやくチームの完成度が最高潮となった。

 前線には、ほぼ半年ぶりにサビオラが起用され、全盛時の輝きを取り戻したラウールと組ませ、中盤は、アンカーポジションにガゴ、ガゴの前方にグティ、スナイデル、ロビーニョの3人を並べた、4-1-3-2という攻撃的なスタイル。中盤3人が代わる代わるフリーランニングとポジションチェンジを繰り返し、ビルバオの中盤を混乱に陥れた。
 前半14分、冷遇されてきたサビオラが、ブランクを感じさせないステップで先制ゴール。そして後半に投入されたロッベンとイグアインは、リザーブとしてチームに正当なプラスアルファをもたらし、追加点を奪った。

 今週日曜のオサスナ戦後には、ラウールがマドリー中心部に鎮座する「シベーレ女神像」の首にマドリーのマフラーを掛けることはまちがいない。
 また、一部で取り沙汰されているクリスティアーノ・ロナウドの獲得はまず無理だとしても、来シーズンは、デ・ロッシ、ブチニッチ、アクイラーニ(共にローマ)、イブラヒモヴィッチ(インテル)、パフリュチェンコ(スパルタク・モスクワ)、フレッチャー(ハイバーニアン)など、大量の補強が予想されている。来季チャンピオンズリーグでは、今季のような体たらくはなさそうだ。

イル・ジャルディーノ・アルモニコ

2008-04-21 23:06:00 | 音楽・音響
 何の気なしに入手し聴いてみた伊ミラノのバロック・アンサンブル、イル・ジャルディーノ・アルモニコの『Biber: Battalia | Locke: The Tempest』が実に素晴らしい。聴く者の気を血の気を多くさせてくれる。ドイツ変態バロックの巨匠ビーバーのとんでもない不協和音ぎりぎりの美しいメロディラインにドキリとさせられるのはもちろんだが、無名氏作曲の『イ長調ヴァイオリン・ソロ・ソナタ』はすでに、「バロックのキャロライナー」とでも表現するしかない境地に達している。
 イル・ジャルディーノ・アルモニコは、1990年代半ば頃にコンピ『The Red Priest』が、ジャケットデザインともども愛聴盤だったことがあったのだが、今回のこれは久しぶりに気に入ったのだった。ドイツとイタリアの幸福かつノイジーな調和。

『デッド・サイレンス』 ジェームズ・ワン

2008-04-20 09:31:00 | 映画
 数十年前に女腹話術師の恨みを買った一族が、腹話術人形を使ったあの手この手の手法で、じわじわと皆殺しと血統断絶への危機に晒される、という大筋を持つ『デッド・サイレンス』は、果たしてこれはいつ製作された作品なのだと疑問を呈したくなるアナクロな作品である。手法として古風で、作者の気構えとして古風なのである。つまりこのアナクロニズムは、作者自らが喜んで引き受けた存在理由そのものでさえある。

 たとえば、ティム・バートンの映画というのは、過去の恐怖映画への目配せであったり、ゴシック的造形への傾倒であったりと、古めかしさという意匠で武装しており、それが功を奏して息の長い固定客を作り出し、また作者自身もそういう趣向の人なのであるが、にもかかわらず、(作者自身さえ望んでいないかもしれぬ)絶対的な現代性を持ってしまっている。

 ところが『デッド・サイレンス』という映画はまったく屈託なくアナクロニズムを疾走している。主人公も含め出演俳優がいずれも凡愚な面構えをしているのだが、それはあえて選択された凡愚さなのだろう。むしろ開巻一番、愛妻を惨殺された夫が徐々に連続殺人の渦の中へ、犯罪の謎解きの渦の中へと埋没していく姿は、嬉々とした演出によって、ある種の清々しさに到達している。「だから言わんこっちゃないんだ、そっちへ行くなとせっかく教えてやったのに、馬鹿な奴らだ」という呟きが劇場内のあちこちから洩れ出てくるかのようだ。こうした観客像もまた、アナクロニズムを形成する良きプレーヤーである。

 監督は、華僑系マレーシア人のジェームズ・ワン。それにしても、チャン・イーモウといいアン・リーといい、さらにこのジェームズ・ワンといい、アメリカでチャンスを物にするアジア人作家がいずれもコンサバな作風ばかりなのが気になる。しかしだからこそ成功を手にしたのでもあるだろうから、一概には責められないが…。

横浜中華街「同發」

2008-04-18 01:17:00 | 味覚
 横浜国立大学にて新学期2度目の授業。その後、徐々に勢いづく雨の中、梅本洋一の運転する車で、彦江智弘を岡野町で下ろし、中華街へ。
 「同發」の本館にて、叉焼(焼豚)、空心菜炒めのランチを。ここの叉焼の味の良さに頬を緩め、お陰でなんとか多忙なる1日を乗りきることができた。

 夜、女子タレントのオーディション1件。番組台本3本。