荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『華麗上班族』 杜峰(ジョニー・トー)@東京フィルメックス

2015-11-29 09:08:17 | 映画
 ミュージカル、とりわけミュージカル・コメディというジャンルは、歴史的に見て、アメリカ映画の専売特許である。
 かくのごとき峻別的なジャンルに、無謀にも広東の地から名乗りを上げた猛者がいる。杜峰(ジョニー・トー)監督の最新作『華麗上班族(かれいじょうはんぞく)』である。香港とも台北とも上海ともつかぬどこかの大都市。すみずみまで人工化されたセット撮影の中で、企業社会の有象無象がミュージカル化される。サブプラムローン問題が顕在化する直前、リーマン・ブラザースが破綻する直前のビジネスシーンが舞台である。加速する資本主義バブル、熱を帯びるマネーゲーム、ジュエリーやブランド品へのフェティシズム。われわれ日本人はそうした壇上からはすでに退場して久しいため、これらの現代風俗が非常に遠いものに思われる。
 杜峰にとっては監督キャリアの初期を彩った大スター、周潤發(チョウ・ユンファ)との久しぶりの再会となった。女優で映画作家の張艾嘉(シルヴィア・チャン)が書き、上演した同名の戯曲を杜峰が映画化した。張艾嘉はプロデュースにまわり、女社長役もつとめている。上演時間3時間半の舞台作品を映画化するにあたり、尺短縮のためにミュージカル仕立てに改変することを提案したのは彼女だったそうである。
 スケルトンの美術セットが秀逸。遠近感が極端に強調された地下鉄構内からオフィスへのシームレスな空間戯画化は、コーエン兄弟の『未来は今』(1994)を思い出させぬでもない。純朴な新人社員のサクセス・ストーリーである点もそっくりである。しかしここでの周潤發と張艾嘉の権謀術数は冷酷なものであり、スケルトンのセットは、すべてがお見通しであり、秘密が保持されず、プライバシーが剥き出しな状態である現代を映し出す。それでも化かし合いと心理戦、秘密処理の謀略がめぐらされる。
 ゲームがいちど始まってしまったら、勝者と敗者が決まり、敗者が徹底的に破滅するまで、ゲームは妥結しない。人間性の介在する余地が、地滑り的になくなっていく。銃弾が一発も放たれず、血の一滴も出ないにもかかわらず、本作はあくまでジョニー・トー的である。


第16回東京フィルメックスは東京・有楽町地区で開催
http://filmex.net/2015/

地点×空間現代『ミステリヤ・ブッフ』 @フェスティバル/トーキョー

2015-11-28 06:08:39 | 演劇
 にしすがも創造舎(東京・豊島区)にしつらえられた円形舞台。そしてこれをとりまく360°の観客席。もうなくなってしまった青山円形劇場を思い出す。この円形の三等分したところに空間現代メンバー3人(ギター、ベース、ドラムス)がポジショニングをとる。
 ロシア革命期の詩人ウラジーミル・マヤコフスキーの戯曲『ミステリヤ・ブッフ』(1918年作)を、地点×空間現代がフェスティバル/トーキョーで上演中である。作品が書かれた前年の1917年にロシア革命が起きている。そもそもマヤコフスキーが上演されること自体が珍しい。そして珍しついでに、三浦基率いる地点はやりたい放題である。居心地の悪い分節で切断された言葉が散りぢりとなり、蒸し返され、言ったそばから忘却され無化される。聖書の一節が現れては沈潜する。空間現代の完成度高い音の塊が芝居全体をコンダクトし、ナンセンス・コメディとして異化する。マヤコフスキーのブレヒト化とも言うべき様相を呈する。
 演者たちの肉体の躍動についても触れなければならない。彼らの肉体はスタミナの続く限りに消尽される。走りまわり、上下動をくり返し、空中に釣り下げられる。これらの無償の運動は、演者たちの肉体から人間性を奪い、フライパンの上でぱちぱちとはねる油のようなものへとメタモルフォーズさせる。彼らの吐く台詞は分節化され、断片化され、抽象化する。またその肉体もボロ布のように扱われるうちに純化され、抽象化される。劇の終幕近く、彼らが円形舞台の周りをグルグルと高速で走りまわるとき、原子における電子の周回を模写しはじめる。演劇において彼らは、原子力の臨界事故を体現しようとしたように、私には思えた。


フェスティバル/トーキョーが、東京都豊島区と埼玉県で開催中
http://www.festival-tokyo.jp

『レインツリーの国』 三宅喜重

2015-11-25 17:23:31 | 映画
 まさか有川浩の映画化を、同じ年の秋に2本も見ることになるとは思わなかった。
 近未来もの、軍事もののエンタメという点では『図書館戦争 THE LAST MISSION』のほうが有川の表側というイメージだが、『阪急電車』『県庁おもてなし課』そして今回の『レインツリーの国』と、トリビアル路線も関西テレビのディレクター三宅喜重によって着実に映画化されている。私は前2作は未見。
 『レインツリーの国』はジャニーズ Kis-My-Ft2の玉森裕太が主演している。ヒロイン役の西内まりや、恋敵の森カンナをはじめ、玉森以外のキャスト陣がいかにも弱いが、Kis-My-Ft2ファンの心理を斟酌した結果かと推測できる。事実、興行ランキングで1位を快走しているのだから、この地味なキャスティングで正解なのである。
 ある女の子のブログを見て感動した男の子が、ブログ主に感想メールを出して、それからメル友みたいになる。いつしかやり取りはLINEとおぼしきツールに変わり、「既読」となっているのに何日も返事がないとか、そんな事象が物語の重要な要素となるのだ。ブログの文章、メールやLINEの文字変換がスクリーンの下位置にライブでテロップ化され、画面の各カットは、パソコン、iPad、スマホによる文章のやり取りのほんの「合間」で起きる事柄──この男女にもちゃんとリアルな生活はありますよ、ということを示すアリバイカット──を拾い集めているすぎない。
 私たち映画ファンは、この事態に対して「これは映画じゃない!」と噛みつくだろう。そして、そのことも製作サイドはお見通しで、「映画ってなんですか?」「その『映画』っていうの、要らないんですよ」とドヤ顔というやつで返答してくるだろう。もう、これは堂々巡りのシニシズムである。


ショウゲート配給で全国公開中
http://raintree-movie.jp

バルサとフランコ独裁について

2015-11-21 08:25:35 | サッカー
  FCバルセロナが自他共にみとめる別称、というか美称がある。それは「Més que un club(メス・ケ・ウン・クルブ)」、つまり「クラブ以上の存在」という意味である。ホームスタジアムの観客席にも巨大なこの文字が染め抜かれている。この「クラブ以上の存在」という言葉を、サッカー雑誌などでは「ビッグクラブのその上を超越する存在」などと解する向きがあるが、この呼称はそうした、単なる格式の高さをうんぬんするものではない。
 この「Més que un club」を最初に唱えたのは、1968年から69年にかけてバルサの会長をつとめたナルシス・ダ・カレーラスで、彼が会長就任時に述べた言葉である。その際の言葉の意図はより政治的なものであった。1968年といえば、スペインはまだフランコ総統を頂点とするファシスト政党「ファランヘ党」の一党独裁体制のもとにあった。スペイン内戦の終結した1939年に始まったフランコの独裁は、日本やドイツ、イタリアとちがって、第二次世界大戦で中立を貫いたためにかえって、フランコの死去する1975年まで、なんと46年におよぶ長期独裁であった。
 その間、政治犯の検挙、銃殺、カタルーニャ語とバスク語など各地の言語の使用禁止、民俗舞踊や音楽の演奏禁止など、苛烈な弾圧と恐怖政治が続いた。ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』が醸し出す、一種異様な静けさ、何か言いたいことをノドの奥にそっとしまい込むような寡黙さがいったい何なのか、このフィルムがフランコ独裁政権下の1973年に製作されたことを踏まえなければ、理解できないであろう。
 そんなさなかの1968年、ダ・カレーラス新会長は「クラブ以上の存在」を宣言した。その意味は、バルサが単なるスポーツ団体として活動するのみならず、カタルーニャ社会の象徴として、カタルーニャの文化、社会、民族伝統、民主化運動…そうしたものの一切合切を包含する存在として、活動していこうという、大胆不敵な宣言である。1940年代以降、バルサには折にふれ弾圧が加えられてきたが、1968年、機は熟したわけである。30年近い雌伏の期間を置かざるを得なくても、民主化の象徴としてのバルサは甦っていった。ジョルディ・プジョルら活動家のプランニングのもと、非合法的な民主化運動のリーダーや、ソーシャリスト、コミュニストの活動を、バルサは陰で支えてきたのである。そしてその流れは、オランダのアヤックスからヨハン・クライフが加入した1973年、もう後戻りのできないものとなる。
 そして、2015年。9月にカタルーニャ自治州の州議会選挙がおこなわれ、カタルーニャ独立をとなえる勢力が圧倒的多数で勝利した。今後1年半にわたるアジェンダにおいて、カタルーニャは独立にむけた手続きをとっていくことなる。もちろん、スペイン政府はこれをいっさい認めておらず、今後激しい対立を生むことだろう。
 スペインプロサッカー連盟(LFP)もまた、「カタルーニャが独立した場合、バルサはリーガ・エスパニョーラにいることはできない」という意向を表明している。バルサはリーガを追い出され、レアル・マドリーとのクラシコも消滅するわけだ。興味深いのは、フランス政府の動きである。フランスのヴァス首相が今月、「もしバルサがリーガ・エスパニョーラを追い出された場合、バルサのフランス・リーグアン加盟を歓迎する」と正式に表明した。つまり、バルサはパリ・サンジェルマンやマルセイユ、リヨンなどとリーグ戦を戦うことになる。それはそれで面白いのではないか。とはいえ、これはLFPによる、カタルーニャ独立を阻止するための脅迫であって、真に追い出したいとは思ってはいまい。
 今回のカタルーニャ独立運動に対し、バルサの現執行部は中立を表明している。しかし、前々会長のジュアン・ラポルタは、いまいちどバルサは「Més que un club」の精神を体現し、独立の旗頭になるべきだと主張しており、元バルサの監督で現在はバイエルン・ミュンヘンの監督をつとめるジュゼップ・グアルディオラもカタルーニャ独立を明確に支持している。
 そうしたまっただなかのきょう、2015年11月21日の夕方6時(日本時間の深夜2時)、マドリーのサンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムで、伝統の一戦クラシコ、レアル・マドリーvsバルセロナがおこなわれる。カタルーニャ州選挙の結果を受けての初のクラシコであり、パリ同時多発テロが起きて間もないタイミングでの、厳戒態勢におけるクラシコである。首都の警備の物々しさは常軌を逸しているほどだとニュースは報じている。今夜いったい、何が起きるのであろうか。とりあえず、ケガで離脱中だったメッシはどうやら間に合うとの情報である。

放送告知
11月21日(土)深夜2:00(日曜午前2:00) WOWOWライブで独占生中継

『ヴィジット』 M・ナイト・シャマラン

2015-11-14 04:48:49 | 映画
 それなりにカルト的なファンがついているということだろうが、M・ナイト・シャマランという人は精神的に打たれ強いというか、よくぞこれまで続けてこられたものである。興行・批評共に評判がよかったのは『シックス・センス』など初期だけで、『レディ・イン・ザ・ウォーター』『エアベンダー』『アフター・アース』と、最近は評価が下がる一方となり、マイケル・ベイとならぶゴールデン・ラズベリー賞の常連にすっかりなってしまった。『ハプニング』なんかは悪くない作品だった。だが『エアベンダー』はサーガの導入部として作られたのに、その後シリーズの続編が作られるという話を聞いたことがないし(いや、『エアベンダー』も言われるほど悪くはないのだが)、ウィル・スミス親子の雇われ監督として参加した前作の『アフター・アース』の悲惨な出来ばえについては、こちらもあまり多くを語りたくはない。
 新作『ヴィジット』は、絶好調だった初期の調子を取り戻したなどとは言うまいが、映画ファンのツボを妙にくすぐる作品となった。シャマランはカレッジ・ホラーに先祖返りしていく。『岸辺の旅』とちょうど公開時期が重複したけれども、黒沢清の高山植物のような孤高の進化とは正反対に、一歩間違えたら学生でさえ作れそうなホラー自主映画を何食わぬ顔で作っている。しかもその画面構成は、15歳の少女と12歳の弟がカメラを回した家族ドキュメンタリーの素材という形式を取っている。退行の快楽によって調子を取り戻すこともあるのである。
 プロデュースは、『パラノーマル・アクティビティ』シリーズを手がけてきた、スリラー/ホラーを専門とするジェイソン・ブラム。このプロデューサーがこの1年で手がけたのは『セッション』『パージ』『パージ:アナーキー』『死霊高校』である。識者の舌戦を引き起こした『セッション』は、ようするに音楽大学を舞台とするホラー映画だったことがわかる。ブラムがはたして評価に値する存在であるかは、意見が分かれるだろう。しかし、シャマランに対しては良いことをしたのではないか。
 少女とその弟が一週間の予定で泊まりに行った、ペンシルベニア州の祖父母の家。夜になると、部屋の外でものものしい物音がする。ドアを開けると、ある者が踊り場を騒ぎながら横切る。嘔吐しながら横切る。これがじつに怖ろしい。誰かが横切るというだけで、観客を怖がらせるのだから、それだけでこの作品は成功である。少なくとも今年度は、ラジー賞から無縁でいられるだろう。


TOHOシネマズみゆき座(東京・宝塚劇場地下)ほかで公開中
http://thevisit.jp