生ではないとはいえ、現代イギリス演劇を見られる貴重な機会だから、「ナショナル・シアター・ライヴ」には可能なかぎり足を運ぶことにしている。東京での上映場所はTOHOシネマズ日本橋のみ。去年までは日本橋の中洲に住んでいたから徒歩で劇場に行って、上映後は劇場そばのバーで一杯やってそのまま徒歩で帰ったものだった。日本橋を去ったいまでは、この「ナショナル・シアター・ライヴ」のみが日本橋に帰る数少ない機会となった。
今回上映されたのは、スペインの詩人・劇作家フェデリコ・ガルシア・ロルカ(1898-1936)の戯曲『Yerma』を、2016年にロンドンのヤング・ヴィック劇場で翻案上演したものの上演収録だ。戯曲ではスペインのアンダルシア地方が舞台だが、現在のロンドンに置き換えられている。夫婦の物語。夫はなにかの事業でそれなりの成功をおさめ、地価の安い犯罪多発地域とはいえスタイリッシュな邸宅を購入したばかり。夫婦は左翼系知識人階級に属し、自立した男女どうしの共同生活であって、旧弊な家族至上主義を標榜してはいないが、妻のイェルマ(ビリー・パイパー)は「そろそろ子どもが欲しい」と言う。こうして妊活が始まるが、これが悪夢の始まり。
いや、妊活が悪夢の原因なのか? 一見するとこの芝居は、ヒロインの過剰な妊娠願望がもたらした悲劇として語られていく。しかしそもそもこのカップルはその関係性のなかに悪夢の因子を孕んでいたのではなかったか。妻に引っぱられるまま不妊治療に付き合う夫は、じつを言うとさして子どもなど望んでもおらず、現在のそれなりにゴージャスなライフスタイルをただ維持したいだけだろう。いっぽうイェルマのブログは、進歩的な政治発言やセックスについての率直な記述で人気がある。彼女が夫のEDについて書くと、夫の会社同僚はみな翌朝にはそのことを知っているという寸法だ。妊活はなんの効果もなく推移する。夫婦はたがいに相手の機能不全を言い立てて争う。現代日本の用語に適切に(笑)したがえば「生産性」についてのお話。傷ついたイェルマの精神は、目に見えて崩壊していく。
ヤング・ヴィック劇場の中央にガラス張りの舞台がしつらえられ、ぐるりと取り囲むように観客が彼らの転落を、理科の実験のごとく見つめる形だ。ガラス張りの残酷格闘技を見るかのように。一場一場は「たとえばこんなこともあった」というような、あたかもそこに必然性がないかのごとくぶっきらぼうに提示され、シーンとシーンのあいだに広がる暗闇に轟音で音楽がかかり、観客はそこで表示されるスーパー字幕で、彼らの惨状がどこまで行ったのかを知る。スタンリー・キューブリックの『シャイニング』に感覚が近い。「こんなことがあった」とあっけらかんと恐怖の描写が提示されたあと、シーンは数日か数週間は経過している。「少しは状況が回復するかも」という淡い期待はそのあとに続く描写によって完全否定される。
「ナショナル・シアター・ライヴ」はそれが方針なのか、DVD発売もしないし、名画座にも落ちないから、安心してラストをばらすと、ヒロインのイェルマは、事業破綻した夫に去られ、昔の恋人にも去られ、不動産に売りに出されたからっぽの邸宅でひとり、割腹自殺する。つまり、不在たるお腹の子どもをみずから殺す。子どもを宿す可能性を殺す。そしてそれはみずからに対する子殺しの死刑宣告でもある。腹から噴き出す血を抑えながらもんどり打つヒロインの姿は、まるで増村保造映画の若尾文子のように狂おしく壮絶だ。
本篇上映前のアバンタイトルに、本作の演出家サイモン・ストーンと劇場オーナーの対談VTRが付いていたのだが、その中でサイモン・ストーンは「重要なのは、これを書いたガルシア・ロルカが若くして死んだこと、リベラルだった彼がフランコ派右翼によって暗殺されたという事実だ。彼は自分がまさか早死にするとは思っていなかっただろう。『イェルマ』は彼が暗殺される2年前に書かれた作品だ」と言っていた。
絶讃された同作は翌2017年にローレンス・オリヴィエ賞の最優秀リバイバル賞および主演女優賞(ビリー・パイパー)を受賞し、今年は同じスタッフ&キャストで、ニューヨークのパーク・アヴェニュー・アーモニーでも上演されている。
10/4まで全国の指定劇場で上映
https://www.ntlive.jp
今回上映されたのは、スペインの詩人・劇作家フェデリコ・ガルシア・ロルカ(1898-1936)の戯曲『Yerma』を、2016年にロンドンのヤング・ヴィック劇場で翻案上演したものの上演収録だ。戯曲ではスペインのアンダルシア地方が舞台だが、現在のロンドンに置き換えられている。夫婦の物語。夫はなにかの事業でそれなりの成功をおさめ、地価の安い犯罪多発地域とはいえスタイリッシュな邸宅を購入したばかり。夫婦は左翼系知識人階級に属し、自立した男女どうしの共同生活であって、旧弊な家族至上主義を標榜してはいないが、妻のイェルマ(ビリー・パイパー)は「そろそろ子どもが欲しい」と言う。こうして妊活が始まるが、これが悪夢の始まり。
いや、妊活が悪夢の原因なのか? 一見するとこの芝居は、ヒロインの過剰な妊娠願望がもたらした悲劇として語られていく。しかしそもそもこのカップルはその関係性のなかに悪夢の因子を孕んでいたのではなかったか。妻に引っぱられるまま不妊治療に付き合う夫は、じつを言うとさして子どもなど望んでもおらず、現在のそれなりにゴージャスなライフスタイルをただ維持したいだけだろう。いっぽうイェルマのブログは、進歩的な政治発言やセックスについての率直な記述で人気がある。彼女が夫のEDについて書くと、夫の会社同僚はみな翌朝にはそのことを知っているという寸法だ。妊活はなんの効果もなく推移する。夫婦はたがいに相手の機能不全を言い立てて争う。現代日本の用語に適切に(笑)したがえば「生産性」についてのお話。傷ついたイェルマの精神は、目に見えて崩壊していく。
ヤング・ヴィック劇場の中央にガラス張りの舞台がしつらえられ、ぐるりと取り囲むように観客が彼らの転落を、理科の実験のごとく見つめる形だ。ガラス張りの残酷格闘技を見るかのように。一場一場は「たとえばこんなこともあった」というような、あたかもそこに必然性がないかのごとくぶっきらぼうに提示され、シーンとシーンのあいだに広がる暗闇に轟音で音楽がかかり、観客はそこで表示されるスーパー字幕で、彼らの惨状がどこまで行ったのかを知る。スタンリー・キューブリックの『シャイニング』に感覚が近い。「こんなことがあった」とあっけらかんと恐怖の描写が提示されたあと、シーンは数日か数週間は経過している。「少しは状況が回復するかも」という淡い期待はそのあとに続く描写によって完全否定される。
「ナショナル・シアター・ライヴ」はそれが方針なのか、DVD発売もしないし、名画座にも落ちないから、安心してラストをばらすと、ヒロインのイェルマは、事業破綻した夫に去られ、昔の恋人にも去られ、不動産に売りに出されたからっぽの邸宅でひとり、割腹自殺する。つまり、不在たるお腹の子どもをみずから殺す。子どもを宿す可能性を殺す。そしてそれはみずからに対する子殺しの死刑宣告でもある。腹から噴き出す血を抑えながらもんどり打つヒロインの姿は、まるで増村保造映画の若尾文子のように狂おしく壮絶だ。
本篇上映前のアバンタイトルに、本作の演出家サイモン・ストーンと劇場オーナーの対談VTRが付いていたのだが、その中でサイモン・ストーンは「重要なのは、これを書いたガルシア・ロルカが若くして死んだこと、リベラルだった彼がフランコ派右翼によって暗殺されたという事実だ。彼は自分がまさか早死にするとは思っていなかっただろう。『イェルマ』は彼が暗殺される2年前に書かれた作品だ」と言っていた。
絶讃された同作は翌2017年にローレンス・オリヴィエ賞の最優秀リバイバル賞および主演女優賞(ビリー・パイパー)を受賞し、今年は同じスタッフ&キャストで、ニューヨークのパーク・アヴェニュー・アーモニーでも上演されている。
10/4まで全国の指定劇場で上映
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