荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『3泊4日、5時の鐘』 三澤拓哉

2015-09-27 17:58:10 | 映画
 小津安二郎監督が定宿とした「茅ヶ崎館」という有形文化財でのロケーションという特殊条件を得て、七人七様の男女の恋模様、鬱屈、取りなし、傷心などの有象無象が映し出される。「茅ヶ崎館」を小津は1937年からシナリオ執筆のために使い、この宿で『父ありき』『長屋紳士録』『風の中の牝鶏』『晩春』『宗方姉妹』『麦秋』『お茶漬の味』『東京物語』『早春』などの諸作が生み出されたのだそうである。
 言わば日本映画史にとっては神話的な空間であるわけだが、その空間でエリック・ロメールと言おうか、ジャック・ロジエと言おうか、人間の小心な傲慢さ、ボタンの掛け違いを、一篇のバカンス映画にまとめ上げる、ということを夢想する映画作家がいても不思議ではない。この試みをリードするのは小篠恵奈と杉野希妃のひどく仲の悪い会社同僚コンビで、この2人の女性の苛立ちと口うるさい罵り合いがとにかく心地よく画面を活気づけて、空間の神話性から私たち観客を離反させてくれる。
 作品の途中、「茅ヶ崎館」についての歴史的説明のシーンがあって、「湘南の別荘文化を物語るよすが」というような説明がされていた。湘南の別荘文化といえば、『安城家の舞踏会』(1947)や『わが生涯のかがやける日』(1948)といった、没落華族の行く末をあつかった2本の吉村公三郎監督作品を思い出す。昨年シネマヴェーラ渋谷の佐分利信特集で初めて見ることができた『広場の孤独』(1948)のハプスブルク帝国貴族の残党が東西冷戦の陰謀を巡らすために「バラ栽培」と称して構えるのも、湘南の別荘だった。
 『3泊4日、5時の鐘』とタイトルが示すように、映画の物語はきっかりこの時間軸を語り終え、4日目の夕方5時をもって大団円を迎える。しかしその大団円はあくまでかりそめのものであって、一組の男女の結婚披露宴をもってハッピーエンディングとなるのだが、このハッピーエンディングは虚構の演擬でしかないのである。どこまでも陽気なトロピカルミュージックが砂浜の特設会場で演奏され、それ相応の宴が催されるものの、祝宴が近づくほどに登場人物たちは、当初の気力を喪失し、それぞれに沈痛さを増すばかりだ。
 「茅ヶ崎館」で大学の考古学のゼミ合宿がおこなわれ、バラバラの陶片を貼り合わせるシーンがある。われわれ人間の生もまたあの陶片と同じで、破片と破片のかりそめの貼り合わせに過ぎない。仮説であり、虚構の演擬である。しかし、それを「虚構だ」と言って抗議するゲームも4日目の5時の鐘とともに終了済みなので、人々はその演擬を甘受するほかはないのである。


9/19(土)より新宿K’s cinemaほか全国順次公開
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金子國義 著『美貌帖』

2015-09-25 05:42:33 | 
 今年の7月に惜しまれつつ閉店した池袋西武の書店リブロの回顧企画「ぽえむ・ぱろうる」を覗きに行った際に買っておいた、デカダン派の和洋折衷画家・金子國義(かねこ・くによし/1936-2015)の自伝本『美貌帖』(河出書房新社)を、ようやく読んだ。店舗内店舗「ぽえむ・ぱろうる」復活のために入荷されたらしい希少本には手をつけず、むかし学生時代にそうしたように、ふつうの新刊3冊を購入した。金子國義の同書と、福間健二の新作詩集『あと少しだけ』、そしてむかし買って実家に置きっぱなしのガストン・バシュラール『蝋燭の焰』の買い足しである。
 アマゾンの購入者レビューでも呆れている人がいるが、金子國義は究極のナルシストである。自分の美的感覚に一点の疑いもなく、自分の育ちの良さ、修行先の筋目の良さ、さらには自分のルックスの良さ、オープンな性格、味覚の確かさ、友人選びの賢明さ、そうしたもののすべてが自慢の種になる。他人の自慢話を延々と聞かされて、気分のいい人はまずいまい。しかし、金子ほどの確信を持ったそれについては、私はまったく別の感想をもつ。生半可な人間の自慢は公害に過ぎないが、真のナルシストの文言は聞くに値するのだ。
 「少年の頃より鏡を見るのが好きだった。冷たくも多面的な要素をもった鏡という存在そのものを好んできた」で始まる本書は、〈序 部屋の中〉〈生家〉〈四谷の家〉〈大森の家〉というふうに、彼が過ごした空間によって章立てされている。埼玉県の蕨市で織物業を営む裕福な家に生まれた彼は、何不自由なく育った。本書は恵まれた人生へのてらいのない讃歌であるが、皮肉にも本書を刊行した今年2月末からわずか半月しかたたぬ3月16日、虚血性心不全のために、あっという間に逝ってしまった。享年78。

 きょうここに記さないと、永遠に記録され得ない些末な事柄だが、せっかくだから記しておくと、私は生前の金子國義に一度だけ会って、仲良く飲み交わしたことがある。1990年代の初頭、まだ私が20代半ばの頃である。そして金子もまだ40代後半だったということになる。フランス旅行の際に知り合った若手映画評論家2人が日本旅行に来て、東京・文京区のとある寺にタダで泊まった。この2人は「カイエ・デュ・シネマ」も「ポジティフ」も認めず、マニアックなファンタスティック系映画やB級映画、香港の武侠映画、日本のやくざ映画を信奉する「シネファージュ」という映画雑誌のライターたちだった。いわば、フランス版の「映画秘宝」といったところだろう。
 その2人を泊めた寺の若住職がほんとうにクソ坊主で、黒のタンクトップを着て、セルジュ・ゲンスブールのファンで、どの角度から見ても無神論者にしか見えない。その愛すべきクソ坊主の恋人が金子國義の縁者で、金子がカバー画を描いた澁澤龍彦訳のマルキ・ド・サドの著作の大ファンだった私は、その坊主カップルからの誘いを受けてのこのこ銀座にむかったのだ。
 今はもう畳んでしまったが、銀座三丁目にあった蕎麦屋「利休庵」に行くと、金子國義が昼酒を楽しんでいる。先述の坊主が金子画伯に私を紹介し、金子國義は「君はいい感じだ。とくに目がいい」などと褒めてくれた。褒められるという経験に乏しいこちらとしては、照れ笑いを浮かべるのが精一杯だったが。ちなみに「利休庵」は銀座の店舗は数年前に畳んでしまったが、日本橋の三越前では営業している。ざっかけない、いい蕎麦屋である。
 「利休庵」に銀座の何とかという画廊の女社長が若い女性スタッフ数人を引きつれて現れ、みんなで銀座の街に繰り出し、豪遊した。場を神楽坂に移して、さらにワインパーティのようなものにうち興じ、深夜まで飲みまくった。画廊の女社長は、金子画伯のだいじな客人と勘違いしたのか、私に手厚いサービスを尽くし、最後にはお車代まで握らせ、スタッフ女性のひとりといっしょにタクシーに乗せようとするのだ。そんなバブル的な些末事に金子はまったく興味を示そうとせず、ひたすら享楽にうち興じている。私はこの女性スタッフと、柳葉敏郎似の “ソイヤ” 系の若者(この2人が会話も噛み合い、お似合いに思えた)にさっき握らされたお車代を渡してタクシーに押し込み、そのままひとりで神楽坂の街に消えておいた。
 その後、金子國義とは会わずじまいだった。しかしながら、わが青春時代の記憶のなかでは、濃密な夜のひとつである。

『岸辺の旅』 黒沢清

2015-09-22 23:47:54 | 映画
 浅野忠信と深津絵里がローカル線の座席で寄り添う宣伝ポスターなどを見ると、黒沢清初の恋愛映画のように予想されたが、蓋をあけるとじつに黒沢清的なホラーであった。しかしこれまでと決定的に異なるのは、死者が生者に対して「世界の秩序を回復せよ」などと恫喝して生者をまがまがしくリモートコントロールしようとしないことだ。死者がこの世でおこないうる最後の行為は、ここでは〈岸辺の旅〉と名づけられる。此岸(この世)──岸辺──彼岸(あの世)という図式だとするなら、〈岸辺の旅〉とは煉獄のような状態を指すのだろう。
 ピアノ教師で生計を立てる深津絵里のもとに、数年前に蒸発した夫の浅野忠信が帰ってくる。彼が帰ってくるシーンのカット割りはホラーである。しかし深津は、それをごく自然なこととして受け入れる。「俺、死んだよ」と開口一番、浅野は自分が幽霊であることを白状する。冒頭にしてあっさりと謎は消えた。あとは生者と死者のむきだしの対峙があるのみであり、その点でいうと、生死の境を行ったり来たりしながら謎の解明にあくせくとなる『リアル 完全なる首長竜の日』(2013)の失敗を、作者はくり返すまいとしているかのようである。
 冒頭での本人の述懐によれば、浅野忠信はどうやら心の病に勝てず、流浪のはてに日本海で自殺したらしい。死者として戻った浅野は、失踪のあいだお世話になった人々を再訪する旅行を妻に提案する。これにほいほい付いていく深津絵里のユーモラスささえ醸す、折り目正しい快活さがなんともすばらしい。考えてみれば、配偶者との死別に際し、禊ぎのハネムーンを挙行できる人は、彼女をおいて他にいないのだから、彼女の晴れやかさは、孤独に現世とおさらばするわれわれ一般人すべてにとって羨望の対象なのである。これほど幸福なロードムービーは類例がないだろう。


10/1(木)よりテアトル新宿ほか全国でロードショー予定
http://kishibenotabi.com/

『天使が消えた街』 マイケル・ウィンターボトム

2015-09-18 11:49:32 | 映画
 マイケル・ウィンターボトムの監督作は、今年だけで3本も日本公開されている。1月にヒューマントラストシネマ渋谷の〈未体験ゾーン〉で『ミスター・スキャンダル』(2013)、5月には『イタリアは呼んでいる』(2014)、そして新作『天使が消えた街』が9月から上映されている。その上、イギリス本国では新作ドキュメンタリー『The Emperor’s New Clothes』も公開されたそうだから、そのコンスタントぶりには舌を巻くが、私はとくにウィンターボトムを追いかけておらず、『ミスター・スキャンダル』と『イタリアは呼んでいる』は見逃した。
 このウィンターボトムという人は、どうも作風がぶれていてつかみどころがない。実録モノで迫るかと思いきや、妙に耽美的な画面で時間を浪費してみたり、イギリス人のローカル的な感性にこだわると思いきや、ストレンジャーの旅情に流れたりする。今回の『天使が消えた街』は旅情の作品系列に属し、イタリアの風光明媚なトスカーナ地方で実際に起きた女子留学生惨殺事件に取材した実録モノであると同時に、まったりと耽美的な夢魔描写で彩ってみせたりもしている。その意味ではきわめてウィンターボトム的な作品だと言える。控訴審に群がるジャーナリスト、パパラッチたちの合宿的な時間に比重を置くあたりは、ボスニア紛争を取材するイギリス人記者たちの葛藤をあつかった『ウェルカム・トゥ・サラエボ』(1997)に雰囲気がよく似ている。
 ルームメイトに刺殺された美しいイギリス人留学生エリザベス、主人公のアメリカ人映画監督トーマスをシエナの夢魔的な夜へといざなうイギリス人留学生メラニー、そして主人公がロサンジェルスに置いてきた愛娘のビー(Bea)──。この三者三様の娘たちが主人公のなかで勝手気ままにメランジェと化し、シナリオ執筆の進まぬ主人公は、『神曲』の地獄篇からメラニーに薦められるままに『新生』へと乗り換えつつ、ダンテにとっての永遠の淑女ベアトリーチェのイメージをひたすら膨張させる。実娘の名前ビー(Bea)は、ベアトリーチェ(Beatirce)から採ったものであり、主人公はそもそも、この眩暈に絡めとられる因子をあらかじめ持っていたということだろう。
 留学生刺殺事件の取材は彼をトスカーナの地に縛りつける口実に過ぎなくなり、やがて彼の五感は、ベアトリーチェへの憐憫に支配される。くり返しあらわれる被害者エリザベスの正面ショットは、トスカーナの地縛霊と化したベアトリーチェの面影に置換される。面影(Omo-kage)とは、かつて在った肖像の〈影〉を〈おもう〉ことでもある。主人公はこの過度に普遍化された面影の甘美なる牢獄へと囚われていく。おそらくウィンターボトムは、ブライアン・デ・パルマにとっての『愛のメモリー』のような作品を作りたかったにちがいない。


9/5(土)よりヒューマントラストシネマ有楽町、シネ・リーブル梅田で上映中
http://www.angel-kieta.com

『ピクセル』 クリス・コロンバス

2015-09-14 02:35:38 | 映画
 日本の観客にとって、なんとも複雑な心境にさせられる作品である。ソニー・ピクチャーズ製作だから自作自演の気味はあるが、20世紀後半に繁栄を謳歌した日本文明への讃歌であり、と同時に挽歌でもある。ロー・ティーンの主人公たちが住むアメリカの地方都市にゲームセンターが開店するところが発端となり、30年あまり経過し、彼らはそれぞれ長じて出世したり、うだつが上がらずにいたりする。
 1980年代という、現代文明が最後に明るかった時代へのノスタルジーが、本作にはたっぷりと盛りこまれる。「ギャラガ」「パックマン」「ドンキーコング」「Qバート」「スペースインベーダー」などの日本発アーケードゲームとの決着が本作の主題となる。アーケードゲームの世界大会が1980年代初頭のアメリカのどこかの街で開催され、NASAは地球外生命体にむけて、その大会の記録映像をSF愛に裏打ちされた友好の証しとして送った。ところが、これが宣戦布告と曲解されて、30年後にゲームキャラによる地球侵略がはじまる、という内容である。宇宙にむけたNASAのメッセージが地球外生命体に曲解されるというストーリーは、『スター・トレック』のロバート・ワイズによる最初の映画化(1979)におけるボイジャーを思い出させる。考えてみれば、ロバート・ワイズが『スター・トレック』をやっているということじたい、ヘンテコなことだった。だって彼は『ウエスト・サイド物語 』『サウンド・オブ・ミュージック』の監督ですよ。浮かれた時代だったのだろう。
 大会のスポンサーは任天堂、コナミ、ナムコといった日本企業ばかりであり、劇中を彩る楽曲は『サレンダー』のチープ・トリックにしろ、『ウィ・ウィル・ロック・ユー』のクイーンにしろ(正確にはこれらは80年代ではなく70年代後半なのだが、細かいことは言うまい)、もともと日本で最初に人気に火が点いて、世界へ逆輸出されていったロックバンドである。アメリカ大統領も、イギリスの女性首相もみな、元はゲーマーである。日本的ポップカルチャーが世界のデファクトスタンダードだった時代が確かにあったということだろう。アダム・サンドラーらが演じる元オタクの中年たち(サンドラーは本作の企画・製作も兼ねている)が本作で侵略者退治に武勲をあげ、復権を遂げれば遂げるほど、ひどくこそばゆいほうへ傾斜していった。ダリル・ホール&ジョン・オーツが地球外生命体によるハッキングのネタに利用され、さらにそれをコチコチ頭の反動的防衛官僚がめずらしくちゃんと言及するという描写があり、これには監督のクリス・コロンバスの悪意がこめられているだろう。
 米大陸の発見者として名高い航海士と同じという、人を食った名前をもつ映画監督だとむかしから思っていたが、大して面白くはなくても、こうして健在をアピールしてくれるのはうれしいことである。本作を見て帰宅後、ウン十年ぶり(それこそロー・ティーン以来だ)にチープ・トリックの、70年代日本ギャルの熱狂渦巻く名盤『at 武道館』(1979)を聴いたのは言うまでもない。♪マミゾーライ、ダディゾーライ…という奴です。


9/12(土)より丸の内ピカデリー(東京・有楽町マリオン)他全国で公開
http://www.pixel-movie.jp