荻野洋一 映画等覚書ブログ

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開幕特番とは何か?

2008-05-30 01:41:00 | サッカー
 リーガ・エスパニョーラの総集編の仕上げも無事終わり(視聴率的にも好調で何より)、疲れきった身体を引き摺るようにして、横浜国立大学の授業へ。なんとか乗り切った後は、梅本洋一と共に、関内・太田町のイタリアンレストラン「ラ・テンダ・ロッサ」にてランチを最初から最後まで非常に美味く食べる。「余は満足じゃ」などと実に通俗的な独り言も出ようというものだ。いつも思うのだが、美味い食べ物というのは、衰弱した身体をなぜこうも立ち直らせてくれるのだろうか? 当たり前といえばそれまでだが、この短絡的な効果にはいつもびっくりさせられる。

 リーガ・エスパニョーラが終わったばかりだというのに、6月7日にはUEFA EURO 2008が開幕してしまう。だが、開幕の前に開幕特番というものも製作しなければならない。まずは全体構成を書かねばならないわけだが、どうも私は、この手のビッグイベントの前夜祭企画とか、開幕スペシャルのたぐいが大嫌いで、織田裕二とかそういう有名タレントが「いやあ、待ち遠しいよね!」などとくどくどがなっているだけの番組であることが多く、本当につまらないものだろう。
 だからこの手の番組は、ほとんど見ない。見ないから、作り方もよくわからないのである。困っているわけであるが、どなたか、開幕特番というジャンルが、少しは興味深いものとなり、かつ視聴率もそれなりにキープする方法論を教えていただけないものだろうか…

 ともかくとりあえず今夜は、本大会直前の強化を目的としたテストマッチ「オランダvsデンマーク」戦(@アイントホーフェン)の中継作業というものが入っている(今夜というより、金曜早朝5時だが)。本番にそなえての腹ごしらえは、プロダクション事務所から歩いてちょっとの「京鼎楼」で小龍包を。台北と東京では、小龍包のレベルが同じ店でもぜんぜん違うとよく語られるが、食べたい時にはどこの都市にいようと、本場ではなかろうと、(味のレベルに多少差があっても)食べたいものは食べるのだ。

西部謙司「オーストリアが世界最強だった頃」(Number PLUS所収)

2008-05-25 03:08:00 | 
 出たばかりの「Number PLUS」誌(文藝春秋)のユーロ2008特集号をぱらぱらめくりながら、来るべきUEFA EURO 2008の開幕日となる6月7日に思いを馳せている。この大会の中継映像にたずさわる関係上、準備に追われる毎日で、生活がずたずたになっており、結局「爆音映画祭」も1度しか見に行けなかった。残念だが仕方がない。

 今回のユーロ2008特集号でひときわ目を惹いたのは、西部謙司の「オーストリアが世界最強だった頃」という記事である。ナチスドイツに併合される直前の1930年代に、オーストリア代表が、のちのマジック・マジャール(ハンガリー)やトータル・フットボール(オランダ)を彷彿とさせる最高のチームであった、という内容だ。この時代のオーストリア代表は、Wunderteam(ヴンダーティーム、ドイツ語で「驚異のチーム」の意)と名付けられている。

 この記事に強く反応し得たのは、私自身、先日Wunderteamをめぐって、11分半の短編ドキュメンタリー番組を製作し、放送したばかりだったからである。Wunderteamのエース、マティアス・シンデラーは、この記事でも語られているように、オーストリアのナチスドイツ併合後の1939年1月23日、恋人と共に死体で発見された。享年35。亡国の苦悩にさいなまれての自殺とも、ゲシュタポによる暗殺とも言われているが、真相はいまもって不明である。わかっているのは、生前のシンデラーがゲシュタポから好ましく思われていなかった事実だ。
 併合直後、オーストリア=ドイツ間のうわべだけの友好を意図して、旧オーストリア代表vs統一ドイツ帝国代表の親善試合が、旧ハプスブルク二重帝国の「古都」ウィーンで行われた。ついこの間まで世界最強を誇った旧オーストリアは、ゲシュタポからわざと負けるように指示されていた。指示通り、絶好のチャンスでわざとフカシたりしていたが、どうにも我慢がならなくなった選手が1人いた。マティアス・シンデラーである。このユダヤ系ボヘミア人ストライカーは、あってはならぬ先制ゴールをあげてしまい、滅亡した故国を「誤った勝利」に導いてしまったのだ。


 色とりどりの花が咲いたかのような素晴らしいユーロという大会であるが、やはり私は時として、このような陰りを帯びた裏面史や、悲劇性をまとった個人史に目を惹きつけられてしまうことがあるのだ。

中原昌也 著『作業日誌 2004-2007』

2008-05-20 10:05:00 | 映画
 このところ、中原昌也に凝っている。やはりこのリリース攻勢に抗しきれるものではない。そしてここ数週間、『中原昌也 作業日誌 2004-2007』(boid刊)の言葉を読み、『Hair Stylistics vol.1 Pop Bottakuri』(boid CD-003)の音を聴きつつ、この中原昌也という人の非凡さに、改めて大いに衝撃を受けている。なお、『映画の頭脳破壊』(文藝春秋)、『ニートピア2010』(文藝春秋)は未読。引き続き読むつもりだ。

 『作業日誌』『Pop Bottakuri』はいわば、共に日記である。ブログとか日記サイト全盛の時代にふさわしい表現であるかにも見える。だがこれらは本当のところは、一人称の日記を隠れ蓑にした檄文である。しかも、この檄文で批判対象となっているのは、私たち自身なのである。
 この〈言葉-音〉日記の作者は、私やあなたに強烈な呪詛を投げかけてくる。呪詛を受け止める私たちは、かなり緊張を強いられるけれども、作者はほんのたまにその呪詛を解いてくれる。私たちもまた、その武装解除のメロウさにふっと心を休める。大変な心地よさである。殺伐の中の安逸である。癖になる安逸である。

 同時代の優れた表現者に対して、それにふさわしい充実した言葉を投げかけるのが、その時代時代の批評が行うべき役目であるはずだが、「凝っている」とか「衝撃を受けている」とか、つまらない言辞ばかりを並べ立てる私に、どうか時間をいただきたい。とにかく、同時代の刺激的な表現に出会いたいならば、中原昌也の本を読み、CDを聴けばいいのではないか、としか言うことができないのがもどかしいのである。


P.S.
 『作業日誌』の中に何度も「荻野さん」という人が出てくるが、そのうちの2回程度は私のことだが、大部分は同姓の別の方である。念のため。

『愛は死より残酷』 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

2008-05-18 09:27:00 | 映画
 紀伊國屋レーベルのDVD2本購入。まず見たのは、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『愛は死より残酷』で、これは彼の長編デビュー作(1968)であるが、このぶっきらぼうでいながら、たっぷりと媚薬のかかったような作品を見ていると、再び忘れかけていたRWF病をずぶりと患いそうで怖いほどだ。本当に凄い監督だと思うし、こんな人は、今では世界中どこを捜してもいない。

 RWF映画の登場人物たちの情けなさ、無様さ、陳腐さは、私たちの生の陳腐さを拡大鏡で押し広げたものだと思う。と同時にそれは、「これは私たちの映画だ」というような普遍的受容を許すことはない。つまり、徹頭徹尾、西ドイツという分断国家の市井という反-普遍に身を浸しながらも、逆に、それを見る私たちのうぬぼれを映し出すミラーでもありうるという点こそが、彼の映画の面白さなのだと思う。もちろん、サーク(ズィルク)映画との関連云々についてなど、昨今は多くの事柄が語られているが、今は措いておこう。

 特典映像として、デビュー前の短編2作が収録されている。こちらは両方とも初見。『都会の放浪者』(1966)はRWF本人によればロメール『獅子座』を模して製作したものだという。まあ、冒頭あたりのルンペンの様子は似ていなくもないが。

『CLEAN』 オリヴィエ・アサイヤス

2008-05-17 04:58:00 | 映画
 吉祥寺バウスシアターで開幕する「爆音映画祭2008」前夜祭レイトにて、オリヴィエ・アサイヤス『CLEAN』(2004)。爆音上映を訪れるのは、前回のM・ナイト・シャマラン『レディ・イン・ザ・ウォーター』以来。今回の『CLEAN』は、豪華なキャスティングや、マギー・チャンがカンヌ国際映画祭で主演女優賞を獲ったことなどによって、配給権が高騰してしまったとのことで、結局日本では公開されずに終わったものだが、今回劇場初上映ということで初めて見ることができた。

 主人公たちの焦燥感に駆られた慌ただしい行動をクロースアップのパンで強引にフォローしていくあたりは、『冷たい水』(1994)の頃の猛々しさが戻ってきた感があり、PAから発せられるロックの音響が、トロント、パリ、ロンドン、サンフランシスコと目まぐるしく移り変わっていく舞台の街のざわめきへと、継ぎ目なしに乗り変わる様は、まさにアサイヤス映画ならではの醍醐味だろう。大いに堪能して帰った。作品としては申し分ないだけに、日本未公開である点は残念だ。


「爆音映画祭2008」は多彩な上映作品とゲストによって5/24(土)まで開催。
http://www.bakuon-bb.net/