荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ルクリ』 ヴェイコ・オウンプー @東京国際映画祭

2015-10-30 01:32:26 | 映画
 生まれて初めて見るエストニア映画がこれだというのも、すごいことだ。ペシミスティックかつ深刻な内容だが、へたするとふざけているようにも見える。タル・ベーラの『ニーチェの馬』の厳粛さが引きつった哄笑を誘うのと似ている。
 プレス試写後のQ&Aで製作サイドから「これは非常に象徴性を散りばめた作品だが、どう解釈するについての答え合わせをするようなものではない。謎、問いかけはあっても、答えは用意されない」という言葉が出ていた。それには同意できるが、しかし突如として画面が白くなり、ナチスの鉤十字とソ連の錨マークが合わさったような奇妙なエンブレムが画面中央に現れる段になると、いったいこれは何なのか説明してほしいと思うのが人情である。
 戦闘機のけたたましい通過音、爆撃音が頭上に響き、チューニング不能のラジオからわずかにノイズが聞こえる。どうやら最終戦争が始まり、都市が消滅したと誰かが言っている。ディストピアにあってなお繰りかえされる夫婦間の不和が、この映画のもっとも焦点の近い問題だ。電気とガスが停止しても、世界の終わりがそこまで届いていても、男と女はかくも感情的罵り合いを続けるほかはないのか。
 意味不明なしぐさが続くなか、一観客たる私は、この不可解さを参照項によってシネマに繋ぎとめようと滑稽にもがく。手持ちカメラの切り返しはかつてのドグマ95運動のようだとか、ストーリーはラース・フォン・トリアーの『メランコリア』そっくりだとか、主人公を拉致して結局なにもしない山賊はなんだったのかとか、自然描写にネオゴシック的幻想性をもたらすのはシャルーナス・バルタスのようだとか、でも闇夜にろうそくを灯すとJ.S.バッハのオルガン曲『主よ、我は汝の御名を呼ぶ』が流れるあたりはもろにタルコフスキーだなとか、…エトセトラ、エトセトラ。
 とりあえずの結論。──監督が「この映画を企画したのは去年で、ちょうどロシア軍が親ロシア側住民の保護と称してクリミア半島を占領し、周辺国の軍事的恐怖が浮上したことを受けて、いっきに具体化していった」と社会的訴求性を主張しているにもかかわらず、ゴダール的あるいはベケット的パロディアス性にも似た、映像=音響のシュールなショーとして、一観客たる私は受容することとする。

『ハン・ゴンジュ 17歳の涙』 イ・スジン

2015-10-28 01:06:34 | 映画
 東京国際映画祭の真っ最中ながら、今年初めにヒューマントラストシネマ渋谷で開催された〈未体験ゾーンの映画たち2015〉の中から、韓国の2013年作品『ハン・ゴンジュ 17歳の涙』をレンタルで見る。〈未体験ゾーンの映画たち〉はようするにオクラになりそうな(またはなってしまった)配給作品を業者が叩き売りする市のようなもので、その後は「劇場公開作」の身分でDVD/BDがリリースされるしくみのようである。アベル・フェラーラ『ハニートラップ』やマイケル・ウィンターボトム『ミスター・スキャンダル』など有名監督の新作も含まれ、洋画不振を象徴すると共に、ニッチに目配せされた好企画とも言えるだろう。
 私がこの新人監督作を見ようと思い立ったのは、「カイエ・デュ・シネマ」誌のヴァンサン・マローザが先月、パリの劇場「ステュディオ・ギャランド」でプレゼン講演をしたとのことで、がぜん興味が湧いたのである。なんともみっともない、虎の威を借る鑑賞動機であって、その点は恐縮せざるを得ない。
 しかし、作品じたいはじつに素晴らしかった。濁りのない語り、残酷な心理描写、画面からあふれる若さと悲しみ。中学時代に起きた事件をきっかけに、主人公の女子高生ハン・ドンジュの生活はめちゃくちゃとなり、両親の離婚、夜逃げ同然の転校、終わらない裁判、加害者である男子生徒グループの親からの逆恨みなど、不幸のスパイラルにさいなまれ続ける。救いのない絶望のさなか、放課後の音楽室における彼女のギター弾き語りの、いまにもこわれそうな、かすれきった微動のような、しかし聴く者を強くゆさぶる歌声を、涙なくして聴けまい。主人公少女を演じたチョン・ウヒはすこし本田翼に似ている。
 映画の前半と終盤で、ソウルの真ん中を東西に流れる漢江を電車で横断するカットが出てくる。ソウルの人々は漢江を愛していると思うが、私の個人的な好みで言うと、都市河川としては漢江はすこしばかり巨大過ぎる気がする。まるで海峡である。テムズ川、セーヌ川、隅田川、京都の鴨川くらいのサイズが最も好きである。ドブ一歩手前と言っていい神田川(東京)、道頓堀川(大坂)、清渓川(ソウル ただし現在は親水公園として整備されている)の小河川も捨てがたい。だが、海峡のように凶暴な水がパックリと口を開けている本作の漢江は、『グエムル』以上の怖さをもっていた。

『オセロ』 ナショナル・シアター・ライヴ2015

2015-10-24 02:34:49 | 演劇
 イギリスの舞台演出家サー・ニコラス・ハイトナーは、2010年9月の『ハムレット』に続いて、2013年4月に同じくシェイクスピアの『オセロ』を上演し、2003年から10年間つとめたロイヤル・ナショナル・シアター(英ロンドン・サウスバンク)のアーティスティック・ディレクターを退任する発表をしている。この重要な時期に演出された『オセロ』は、ハイトナーにとって集大成と言える上演となった。TOHOシネマズ日本橋など全国各地で断続的に開催される、イギリス演劇の上演収録を上映するイベント〈ナショナル・シアター・ライブ2015〉において再公開された。
 オセロは元来、シェイクスピアと同時代である16世紀ヴェネツィア共和国軍の将軍であり、北アフリカ出身のムーア人である。オセロ率いる軍は、オスマン・トルコ帝国によるキプロス島侵略を迎撃するために出動する。しかし本公演におけるオセロは、イスラム圏の某国に駐留する現代イギリス軍のアレゴリーとなっている。駐留軍が灼熱の中東で舐める辛酸を、オセロ、デズデモーナ、イアーゴーらの悲劇によって置換する。それは、駐留という行為そのものの無益さを炙り出させる。
 興味深いのは、演出のニコラス・ハイトナーがユダヤ系であり、なおかつ同性愛者であるにかかわらず、人種差別への言及は、オセロの黒い肌に対する侮蔑と自嘲をあらわすシェイクスピアのテクストに留まっていること、そして、将軍オセロに妻のデズデモーナが不倫していると讒言するイアーゴーという登場人物が、オセロに対してホモセクシャル的な愛憎を潜在意識の中に持っているという学術上の説をほとんど無視していることである。
 つまりハイトナーはおのれのポジションを、作品解釈から意図的に除外しているのである。軍隊内における昇進差の嫉妬、男女間における肉体関係の嫉妬といったじつにナイーヴな現象によって、作品を再構築しようとしている。風格と質実を旨とする軍人オセロが、妻への愛のために骨抜きとなり、嫉妬に狂って破滅する。オセロはデズデモーナの忠実さを信じることができず、自分勝手な妄想のなかで彼女をファム・ファタールに仕立て上げてしまう。オールド・スタイルのCrazy Little Thing Called Loveへの還元。それはあたかもシェイクスピアよりももっと古い、『覇王別姫』や『楊貴妃』といった古代中国の傾城美人の物語へと、悲劇というジャンルの源流へと、遡行するかのごとき試みにも思える。


〈ナショナル・シアター・ライブ2015〉@TOHOシネマズ日本橋など
http://www.ntlive.jp

『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』 中村佑子

2015-10-21 13:56:17 | 映画
 作者が悶え苦しみ、自問自答しながら絞り出された映像と音とを、私は劇場のスクリーンをまんじりともせずに見つめながらリスペクトと共に受け取っていた。もちろんどんな映画だって、作り手たちはみな悩み、苦しみながら作っている。しかし、これほどプロセスの息の詰まるような緊張感が率直に語られた作品を、見ることはめったにない。

 私は昨年12月、東京・白金台の庭園美術館にいて、内藤礼の小さな小さな木彫り人形を、旧皇族の邸宅である同館のアール・デコ様式で彩られた内装の片隅でポツポツと見つけながら、ゆっくりとしたひとときを過ごしていた。すばらしい一日だった。
 また、2年前の雨の日、香川県の豊島美術館を訪れ、内藤礼の『母型』と西沢立衛の建築とが一体となった巨大インスタレーションに魅了され、いや、魅了を越えたものに圧倒されながら、なかば呆然となりつつただ時間を過ごすという体験をしたのだった。月並みな言い方だが、天国にいるかのようだった。
 私はすでに多少なりとも内藤礼の作品をこの身体で触れ、その計り知れぬものに触れている。NHKの番組「日曜美術館」が内藤礼を扱ったのも一度のことではない。それでも彼女のドキュメンタリー映画なんて、いまさら見る価値があるのだろうか? ──そんな疑念も少しは抱きながら、シアター・イメージフォーラムの椅子に座ったことを白状しなければならない。

 しかし『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』は、単なるアート・ドキュメンタリーではなかった。これは、内藤礼の作品に触発され、そのドキュメンタリーを撮ろうとした作者による魂の行き先を辿る、苛烈なる旅日記である。映画の前半で、内藤礼は「映像で撮られると、だいじなものが失われてしまう」という理由で取材を拒否する。主人公を喪失した映画は、難破しかかる。しかし、映画は終わらない。いやむしろ、この映画の本領は、内藤礼がフレームから去ってからなのである(最初から内藤礼は、後ろ姿やヒキの姿を断片的に見せていただけだが)。
 この映画は、第一人称によるナラタージュが、凡百のナルシシズムと一線を画しつつ、語りという、映画にとって最大の問題と格闘する。本作で使われる「私」という第一人称が、この映画の監督をつとめた中村佑子本人のものであることに確信をもつには、上映が始まってから少し時間が必要である。決して著名とは言い難いこの作者がそれでも「私」という第一人称を採用したことの挑戦。作品は「内藤さん」と「私」の関係性を語り、「内藤さん」に去られた「私」の逡巡から離れず、やがてその逡巡が「私」を多種多様な「彼女たち」へとアクロバティックに反転させ、やがて「あなた」、つまり複数的な他者そのものに敷衍していく光景に立ち会うことになる。その時、この映画で語られる「私」という人称が、男女の性を超越して、スクリーンを見つめる「私」へと接続されていくのを、感じざるを得ないのである。


シアター・イメージフォーラム(東京・渋谷金王坂上)にて10/30(金)まで
http://aekanaru-movie.com

『図書館戦争 THE LAST MISSION』 佐藤信介

2015-10-19 07:07:41 | 映画
 「有害図書」を力ずくで検閲する国家権力と、「表現の自由」をタテに出版文化の存続を図る全国の図書館の対立が先鋭化し、銃器まで持ちだしての市街戦に発展している。奇想を軸にひねり出された、アイデア心に満ちた映画である。
 奇抜な設定ではあっても、じっさいの作品モチーフは、観客にデジャ・ヴュをもたらすだろう。国家権力による焚書というメインモチーフは、フランソワ・トリュフォーのあまりにも有名な『華氏451』(1966)からもらってきたものだろうし、検閲側の機動隊(?)と図書館の「タスクフォース(自衛軍隊)」による内戦は、なにがしかの諷刺SFのように、彼らの日常から遊離している。血なまぐさい銃撃戦が展開されたばかりの図書館で、その殺戮ごっこの清掃が終わったあとは、小学生グループや親子連れが、何もなかったかのごとく絵本や漫画を閲覧しに訪れる。そして熱血的な隊員のヒロイン(榮倉奈々)がむき出しの情熱でコワモテの上官(岡田准一)に恋をするというのは、増村保造が創り出した大映テレビの『スチュワーデス物語』のようだ。映画はこれらのエッセンスを貼り合わせつつ、進んでいく。
 本作にはメリットとデメリットがある。メリットは、秘密保護法、原発再稼働、辺野古ごり押し、安保関連法案etc.と連続して打ち出される現政権のファッショ的傾向をリアルタイムにつかまえて、本作の検閲側の横暴に置き換え、SFバイオレンスのフィクション性を笠に着て露骨に見せている。しかしデメリットとしては、専守防衛のためにだとしても、図書館の全国委員会が銃器や爆弾などの使用を、多少の躊躇を見せつつもおおっぴらに推進し、殺戮ゲームがスペクタクルとして進行する点である。やむをえぬ場合、あるいは「守るに値する」ものを守る場合は戦争を是とする精神的背景が、このようにリベラルな内容を語る青春アクション映画によって、図らずも増強され、整備されていってしまうのだ。
 そして、榮倉奈々と岡田准一のティーハウスでのデートの約束シーンは、いかなる抑圧的な社会、戦時下の社会においても「男女のさわやかな交際くらいは健在であるはずですよ」という、慰撫的なファッショ迎合を補強してしまうのである。端的に言うなら、本作には一人のオスカー・ヴェルナーも登場しない、というのが最大の問題点なのではないか。


TOHOシネマズスカラ座(東京・日比谷)ほか全国東宝系で公開中
http://www.toshokan-sensou-movie.com/