昨年の11月2日、92歳で死去した女優・加藤治子(1922-2015)のインタビュー本『ひとりのおんな』(1992 福武書店刊)を、古書で入手して読んでみた。聞き手は、向田邦子ドラマで共闘したディレクターの久世光彦。久世は加藤より一回り年下だが、2006年、一足先に鬼籍に入っている。この人も素晴らしい演出家だった。そして、この本の版元であり、かつては文芸誌「海燕」も出していた福武書店も今はもうなく、教育・就職情報のベネッセ・コーポレーションへと業態転換している。
最後に見た加藤治子の姿は、山田洋次『おとうと』(2010)における吉永小百合の姑役だったか。非常に高齢まで現役を貫き、いつまでも美しく色気のある女優さんだった。向田邦子脚本のドラマ『阿修羅のごとく』(1979)を見ていて、寝間着姿の加藤治子がパアッと赤ワインを障子に投げつける瞬間のするどい色香を、少年の私はドキドキして見つめたものだ。あの色香は、夫に若くして自殺されたという彼女の来歴から来るものだと、ずっと思ってきた。若くして自殺した劇作家・加藤道夫(1918-1953)の影を、現場の第一発見者である加藤治子はずっと引きずってきた。久世は本書の聞き手をつとめるにあたり、遠慮をかなぐり捨てている。
久世「でもこうやってうかがっていると、やっぱり道夫さんのことは四十年、ずっと治子さんが今日まで引きずっている。水をいっぱい吸った砂袋みたいなんですね」
治子「そうですね。考えてみれば、捨てようとして捨てきれるものでもないし、そんなこと思ったこともないし、かといってそれが重荷で坐り込むわけにもいかないし……。私の身体の一部みたいなものでしょうね。(中略)いかだの上に後生大事に、家財道具みたいにつまらないものもみんな乗っけているのよねぇ。それで、いったいどこへ行くのでしょう……」
加藤治子のあの異常なまでの色気、業の深さは、孤独の影ということになる。
治子「長い戦争があって、それが終わり、三人(加藤治子、加藤道夫、芥川比呂志という新演劇研究会のメンバー3人のこと──引用者注)がまた出会えたときが、私の人生の中で一番幸せだったような気がします。(戦地から婚約者の)道夫が帰ってきた夏、芥川さんが当時住んでらした鵠沼で芝居をすることになり、昼間はチェーホフの『熊』を学校の講堂でやり、夜は海岸を散歩しました。砂の上に身体を横たえると大きな夜空に光っている星の中に吸い込まれていくようでした。私達はこうしてまた会えた。ほら、手をのばせばそこに本当にいる。戦争は終わった。これから私達は芝居をやって生きてゆける。そう思うと嬉しくて誰にお礼を言っていいかわからなくて、私、月の光の中を、波打ち際を何か叫びながら、どこまでも走りました。もうするしかなかったんです」
素晴らしい女優の青春、悲運、孤高、そして死──。これほどおのれの道をまっとうした役者もそうはいまい。彼女は、戦前東宝の名匠・石田民三監督の『花つみ日記』(1939)で、高峰秀子の女学校の同級生役としてデビューしている(当時の芸名は御舟京子)。言わば石田民三ゆかりの最後の生き残りだった。加藤治子が元気なうちに石田民三のことを訊いておいた方がいいと、私は一度ならずと拙ブログなどで主張してきた。それは、空しい掛け声に終わった。
最後に見た加藤治子の姿は、山田洋次『おとうと』(2010)における吉永小百合の姑役だったか。非常に高齢まで現役を貫き、いつまでも美しく色気のある女優さんだった。向田邦子脚本のドラマ『阿修羅のごとく』(1979)を見ていて、寝間着姿の加藤治子がパアッと赤ワインを障子に投げつける瞬間のするどい色香を、少年の私はドキドキして見つめたものだ。あの色香は、夫に若くして自殺されたという彼女の来歴から来るものだと、ずっと思ってきた。若くして自殺した劇作家・加藤道夫(1918-1953)の影を、現場の第一発見者である加藤治子はずっと引きずってきた。久世は本書の聞き手をつとめるにあたり、遠慮をかなぐり捨てている。
久世「でもこうやってうかがっていると、やっぱり道夫さんのことは四十年、ずっと治子さんが今日まで引きずっている。水をいっぱい吸った砂袋みたいなんですね」
治子「そうですね。考えてみれば、捨てようとして捨てきれるものでもないし、そんなこと思ったこともないし、かといってそれが重荷で坐り込むわけにもいかないし……。私の身体の一部みたいなものでしょうね。(中略)いかだの上に後生大事に、家財道具みたいにつまらないものもみんな乗っけているのよねぇ。それで、いったいどこへ行くのでしょう……」
加藤治子のあの異常なまでの色気、業の深さは、孤独の影ということになる。
治子「長い戦争があって、それが終わり、三人(加藤治子、加藤道夫、芥川比呂志という新演劇研究会のメンバー3人のこと──引用者注)がまた出会えたときが、私の人生の中で一番幸せだったような気がします。(戦地から婚約者の)道夫が帰ってきた夏、芥川さんが当時住んでらした鵠沼で芝居をすることになり、昼間はチェーホフの『熊』を学校の講堂でやり、夜は海岸を散歩しました。砂の上に身体を横たえると大きな夜空に光っている星の中に吸い込まれていくようでした。私達はこうしてまた会えた。ほら、手をのばせばそこに本当にいる。戦争は終わった。これから私達は芝居をやって生きてゆける。そう思うと嬉しくて誰にお礼を言っていいかわからなくて、私、月の光の中を、波打ち際を何か叫びながら、どこまでも走りました。もうするしかなかったんです」
素晴らしい女優の青春、悲運、孤高、そして死──。これほどおのれの道をまっとうした役者もそうはいまい。彼女は、戦前東宝の名匠・石田民三監督の『花つみ日記』(1939)で、高峰秀子の女学校の同級生役としてデビューしている(当時の芸名は御舟京子)。言わば石田民三ゆかりの最後の生き残りだった。加藤治子が元気なうちに石田民三のことを訊いておいた方がいいと、私は一度ならずと拙ブログなどで主張してきた。それは、空しい掛け声に終わった。