荻野洋一 映画等覚書ブログ

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ある「悲報」

2011-07-29 20:15:20 | 味覚
 非常に悲しい知らせを書かなければならない。といっても、大規模な災厄、テロリズム、非業の死が次から次へと報じられる昨今、私がこれから書こうとしている「悲報」は、深刻さを欠いた、些末で酔狂な事柄かもしれないが、どうかお許しいただきたい。

 東京深川・高ばしにある「どぜう 伊せ㐂」が、なんと閉店してしまったらしいのである! きょう立ち寄った床屋のオヤジからこの厳然たる事実を聞かされた瞬間、私はショックのあまり、訳がわからなくなってしまった。今冬から休業中だったことはもちろん知っていた。地下鉄・清澄白河駅の「伊せ㐂」の広告の上には、たしか「建て替え工事のため長期休業」とかいう告知紙が張ってあったため、他の店で我慢してきたのである。「化粧直しのために休業した矢先、大震災のせいで建物全体が傾き、工事日程が後ろにずれ込んでいるのだろう」くらいに甘く考えていたのだ。
 「休業」の本当の理由は「後継者不足」とのこと。「伊せ㐂の主人が、自分も使用人もみんな年を取ってしまった、と嘆いていたよ」と床屋の別の客が言っていたそうである。こうした理由でいくつもの名店が姿を消している。数年前の浅草「松風」もそうだった。
 さらに、若年層の嗜好が肉食に移って久しく、魚の消費も海産物が中心となった。ナマズ、コイ、どじょう、あるいはフナといった淡水魚は「泥くさい」などと狭量なひと言で片づけられ、敬遠されつつある(経験の薄い人間にかぎって、退屈なクリシェで物事を片づけようとするものである)。これも時勢というものなのあろうか。「でもなぁ、伊せ㐂にはいつもお客さんがそれなりに入っていたんだけどなぁ……」と、ため息まじりに小さく呟くことしかできない。
 食べもの屋の店内でカメラを構える趣味はないので、私の手元に「伊せ㐂」の写真はないし、店のHPもすでにアクセス不能になっているが、在りし日の佇まいは、こちらの方のページがわかりやすく撮れている。鈴木清順監督が若い女性3人を連れてきて、楽しそうにどじょうをつっついていた素晴らしい光景など、味覚だけでなく、いくつもの五感的思い出が私の脳裏に残っている。
 西浅草の「飯田屋」をはじめ、本所吾妻橋の「ひら井」、駒形橋の「駒形どぜう」、両国橋の「桔梗屋」など、東京にわずかながら残ってはいるけれど、私に言わせれば深川の「伊せ㐂」が筆頭だった。ゼネコンがいくら大金をつぎこんで下町にスカイツリーを10棟、20棟と建てようとも、「伊せ㐂」一軒にくらべれば、なんの価値もない。

 創業は江戸時代末期、明治20(1887)年に現在地に店を構え、旨いものと旨い酒を供し続けた東京の名店がまた一軒、姿を消した。


P.S. 「伊せ㐂」に関する拙ブログでの記述
2008年11月12日 2008年7月26日 2007年7月28日 2007年6月4日

《江戸時代の文人画 荻泉堂コレクション受贈記念》@早稲田大学會津八一記念博物館

2011-07-28 00:31:00 | アート
 東京・早稲田大学内の會津八一記念博物館で開催されている《江戸時代の文人画 荻泉堂コレクション受贈記念》は、いま東京で見られる美術展の中にあってもっとも渋いもののひとつだろう。

 荻泉堂(てきせんどう)こと小林克弘(1938-2007)の没後、その遺志によって当館に寄贈されたばかりの近世文人画のコレクションは、上方、長崎、中京で活躍した人々の書画作品によって構成されている。中には、池大雅、祇園南海、長沢蘆雪、皆川淇園といった著名人のものも混じってはいるけれど、地方の文人画家となると、初めて見る名前ばかりである。
 しかし、荻泉堂の眼力は優れており、知名度の低さに比例して作品の質が落ちるということはなく、むしろ驚くほど上質な作品ばかりなのだ。見応えは保証できる。左図は、世継俊保という京都の人が描いた『春日睡余図』(1751)だが、すばらしいものだ。貫禄のある士大夫らしき人物が、人里離れたどこぞの小楼の床に横臥している。いい姿である。やはり京都の青木猷山という人の『酔李白図』なんて作品は、タイトルを読んで字のごとし、唐の詩人・李白がしたたかに酔っ払って真っ赤な顔で3人の付き人に支えられているという、なんとも福々しい狂態そのものであって、これなどは、酒によく酔う方々にはぜひ見ていただきたいところである。
 本展の会期は7月30日(土)までとなっている。
 會津八一記念博物館というのは、かつての図書館(2号館)の内装がリフォームされてできたもの。2号館といえば、早大シネ研が毎年、文化祭(早稲田祭)のときにこの2号館の前でしるこ屋を経営していた。もちろんしるこ屋だけではなく、毎年ひとりずつ偉大な映画作家にスポットを当て──例えば、まだ生きていたマキノ雅弘、加藤泰などが順にゲストとして呼ばれ、プロデビュー直後の黒沢清が呼ばれた年もある──、大教室でシンポジウム・イベントを開催したりしていた。早大シネ研は、もうだいぶ前に解散している。

 荻泉堂の部屋だけでなく、富岡重憲コレクション展示室の花文様工芸にも、色絵、粉彩の面白いものがちょろちょろあったし、2階の広大な常設展示スペースになにげなく出ていたヴェトナムの安南、タイのスンコロク(宋胡禄)なんかは、意外と珍しいと思う。


早稲田大学會津八一記念博物館
http://www.waseda.jp/aizu/

NHK『ガルボの恋文~坂東玉三郎 ストックホルム幻想』

2011-07-25 01:19:19 | ラジオ・テレビ
 NHKハイビジョン特集『ガルボの恋文~坂東玉三郎 ストックホルム幻想』(演出 藤田純夫)をなんの気なく見始めたら、ワンカット、ワンカットの耽美的な積み重ねに引き込まれてしまった。ガルボの故郷ストックホルムの水景、郊外の自然、木々や花々。夏のストックホルムの美しさは、ベルイマンの初期作品を思い出させるにじゅうぶんだ。
 グレタ・ガルボ(1905-1990)の幻影を追うかのように、ゆっくりとスウェーデン各所を、独創的な白いスーツ姿で歩行する歌舞伎役者は、あたかも美少年の後ろ姿を追ってヴェネツィアの路地を徘徊するダーク・ボガードのようである。番組内でのべつ幕なしにマーラーがかかっていたのも、そういうイメージでの選曲ということだろう。

 MGM社のアーヴィン・サルバーグのプロデュースでデビューしたのが1925年。引退したのが1941年。わずか16年間のハリウッド生活だった。ガルボにあこがれ、そのメイク法を写真集を通じて研究してきた玉三郎は、ガルボが見たはずの見晴らし、ガルボが座ったはずの欄干、ガルボが祈ったはずのキリスト像、ガルボが憂鬱な気分で泊まったはずのホテルルームを跡づけていく。さらに、ヴィクトル・シェーストレムの娘(93才)に会って、亡き女優の思い出を聞き出す。番組制作に先立ち、今回発見された17通の手紙。それは、ハリウッドからスウェーデン宛の、ある男性へのラヴレターだった。このラヴレター(日本語訳)を読む玉三郎の声のなんと情緒的なことか。
 そして、もっとも感動的なのは、マウリッツ・スティルレルの墓参りである。王立演劇アカデミーでガルボを見出し、彼女をアメリカへ連れて行ったのが、スウェーデンの巨匠監督スティルレルだったが、当の彼はたった2年で挫折。彼女を置いて帰国し、翌年病死した。スティルレルには無念なこととはいえ、ハリウッドにおけるガルボの永遠の美は、彼と共にではなく、やはりクラレンス・ブラウン、ルビッチ、グールディング、キューカーらと共にあったのだ。「病死とも、病を苦にした自殺とも言われています」と番組ナレーターは語っていたが、そうだったのか…。スウェーデン時代にスティルレルがガルボを初起用した『イェスタ・ベルリングの伝説』(1924)のスヴェンスカ・フィルムインスティトゥーテットでの試写が終了したとき、思わぬみごとなできばえに、玉三郎はスクリーンに拍手を送る。

 最後には、グレタ・ガルボ自身の慎ましく美しい墓石も見ることができる。引退後は50年間近くニューヨークで人目を避けた隠遁生活を送ったのは有名だし、私はてっきり墓もニューヨーク近郊にあると思っていたが、彼女はスウェーデンの土に眠っていたのだったか。「アメリカ映画が真にいいのは1930年代」と考える者にとって、ちょっとした僥倖のような紀行番組だった。『グランド・ホテル』か『アンナ・クリスティ』あたりをまた見たくてうずうずしてきた。

『タレンタイム』 ヤスミン・アフマド

2011-07-24 02:20:10 | 映画
 ユーロスペースで上映されていたヤスミン・アフマドのレトロスペクティヴにて、遺作の『タレンタイム』(2009)。
 長編第1作からわずか7年目にして、堂々たる風格の青春群像が現れている。マレーシア新潮の代表作ともいわれる『細い目』(2004)のようなナイーヴさを失わないまま、すでに普遍性に達しているのだ。クアラルンプール市内のある高校でおこなわれる音楽コンクール「タレンタイム」。その決勝大会に残った生徒たちそれぞれの家庭環境、恋愛模様、民族間対立が、みごとな手綱さばきで描き分けられてゆく。
 じつは本作を見る前は、いささか億劫ではあった。『細い目』のみずみずしさ(紋切り型の褒め方!)や『ムアラフ 改心』(2007)のまどろみはいいけれど、コンクールにむけティーンエイジャーたちが一念発起するというような日本映画風の通俗的な物語のなかで、プロフェッショナリズムあふれる手綱さばきをこれ見よがしに見せつけられても、あまり嬉しくないなあ、それにもしケニー・オルテガの『ハイスクール・ミュージカル/ザ・ムービー』みたいだったら勘弁だなあ(そんなこと、あるわけないのだが)、という程度の心境だった。
 しかしじっさいには、不思議なことにまったく嫌な感じがしないのは、ヤスミンの人徳なのか。そして、このすみやかなる成熟は何なのだろうか。嫌なこと、障害、肉親の死、病い、民族間憎悪、告げ口、誤解、軋轢…などがたくさん起こるのに、木陰でいつまでもまどろむような感覚(これも東南アジア映画に対する紋切り型の褒め方だが)が、なんとも快適である。

 本作を撮った2009年、日本人だった自分の祖母のルーツをたどる新企画を始動させていた彼女に、突如として死が襲う。願わくば、彼女には長生きして、次代の東南アジアの映画作家たちにとって手本となり、また、打倒すべきオーソドキシーともなってもらいたかったと思う。

《パウル・クレー|おわらないアトリエ》@東近美

2011-07-23 01:25:07 | アート
 東京・北の丸の東京国立近代美術館にて、《パウル・クレー|おわらないアトリエ》。いつものことで恐縮ながら、またぞろ極私的なセンチメンタリズムにひたらせていただくならば、パウル・クレー(1879-1940)は、わが思春期を慰撫してくれたなつかしき画家である。1980年、かつて池袋にあった西武美術館でクレー展を見、カタログを飽かずに眺め続けた思い出があるのである。
 6、7歳年上の従姉がこの展覧会を先に見に行って、成人式の帰りに振袖姿を自慢するためにわざわざ私の家を訪れた際(ほかに見せる相手がいないのだろうか、と訝しく思ったものだ)、ついでに持参していたのがそのカタログだった。私はそれに釘付けとなってしまい、玄関で見送るときにようやくそのカタログを返すことができた。彼女はもう、なかば私にそれをくれてやるつもりだったのだろうか、「あら、返してくれるの?」というような表情で画集を受け取り、帰っていった。はたしてその時点でクレーの絵を正確に理解できたのかどうかは心許ないが、強い印象が残ったのはたしかだ。
 ちなみにそのころ世は、岩波ホールを中心にヴィスコンティ・ブームが起きており、またその年の秋にジョン・ボーナムが吐瀉物でのどを詰まらせて逝き、暮れにはジョン・レノンが暴漢に射殺された。

 「色彩は私を永遠にとらえた、私にはそれがわかる。この至福の時が意味するのは、私と色彩はひとつだということ…」という印象深い至言とともに、あのマス目のなかのたくさんの色、色というものがいまもなお、私を清浄なる非人間的領域に引っ張ってゆく。その曲折した連続性のなかで、私はすこし後に、映画『エゴン・シーレ 愛欲と陶酔の日々』のジェーン・バーキンに触れ、『気狂いピエロ』でジャン=ポール・ベルモンドの顔に塗りたくられた赤と青のペンキ、黄色のダイナマイトを見つめることになったのだった。


本展は、東京国立近代美術館(東京・北の丸公園)にて7月31日(日)まで開催
http://www.momat.go.jp/