荻野洋一 映画等覚書ブログ

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犬塚稔、106歳で死去

2007-09-30 09:42:00 | 映画
 監督・脚本家の犬塚稔が17日、老衰で亡くなった。享年106は、おそらく日本の映画監督経験者では最年長の人であった。たとえば小津安二郎より2歳先輩となる。犬塚稔といえば、やはり現在では「座頭市の生みの親」という評価が筆頭に来るだろう。

 2001年に犬塚の自伝『映画は陽炎の如く』(草思社)が出版された際、さっそく読んでみたが、少し変な本だと思ったのが当時の率直な感想であった。「座頭市の生みの親」たる著者自身の処遇をめぐり、自分をないがしろにした勝新太郎を激しくののしり、『座頭市』原作者の子母沢寛に対しても、その原作は映画『座頭市』シリーズの成立にほとんど貢献しておらず、自分こそ真の生みの親であると声高に書き立てるその筆致は、怨嗟と情炎に満ちて怖いほどであった。少なくとも100歳老人の枯淡の境地とはいっさい無縁の、きわめて脂ぎった本であったことは間違いない。

 この映画史上かなり興味深く奇妙な本を読み終えた僕は、駄目もとで「時事通信社」に書評を書きたい旨を連絡したが、知古の某担当者からは本の内容が書評にそぐわない、と却下されてしまった。編集担当者の当時の判断もまた理解できる。

 とにかく、サイレント時代から監督・シナリオライターとして阪妻プロで活躍しつつも、川端康成、衣笠貞之助らと共同でアヴァンギャルド映画の代表作『狂った一頁』(1926)の脚本を書き、なおかつ長谷川一夫(林長二郎)のデビュー作『稚児の剣法』(1927)の監督も務めた、この一人の映画作家の長い長い人生の終焉に対して、哀悼の意を表したいと思う。



P.S.
 犬塚が死んだことで、サイレント映画の経験のある映画作家は、もうどれほど残っているのだろうか。吉村公三郎も先年亡くなったし、現在の最年長・新藤兼人はスタッフとしてはともかく、監督としてはサイレント映画をやっていない。アメリカはどうせ全滅だろう。
 ポルトガルにマノエル・ドゥ・オリヴェイラという、とんでもない怪物が存在しているが(98歳で現役バリバリ、新作『夜顔』も日本公開待機中で、しかも2008年発表に向けてさらなる新作をロケ中らしい)。彼の初期作品はサイレントである。

URL変更のお知らせ

2007-09-27 11:08:00 | 記録・連絡・消息
 いつも当ブログをご利用いただき有難うございます。今回、ホストであるDUOGATEのブランド名が「au one」に変わったとかで(こういう名称はそう気軽に変えて欲しくないものですが)、当ブログのURLも変更となってしまいました。ご利用の皆様には大変ご面倒様ですが、各ブラウザのブックマーク、お気に入りを下記アドレスに変更していただけますよう、よろしくお願いいたします(ここしばらくは旧アドレスからでも自動リンクしているようですが)。


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バルサ 2-0 セビージャ

2007-09-23 09:17:00 | サッカー
 ラ・リーガは今朝、第4節で早くも重要な一戦。バルセロナvsセビージャ。カム・ノウ竣工50周年記念試合。日本時間5:00AMキックオフ。現地時間はなんと、10:00PMですよ! スペイン人はなんて夜更かしな国民なのだろう!

 試合は両チームとも負けたくない意識が強く出て、前半はやや膠着した展開。アンリはラ・リーガのリズムにまだ戸惑いがあるようだ。彼らしいフィニッシュは1回のみ。エバートンFCからレアル・マドリーに移籍した当時のグラヴェセンも「もう就寝している時間だろう」とインタビューで嘆いていたが、ひょっとしてアンリも、実はラ・リーガの試合時間の遅さに参っているということはないだろうか。

 そんな中、アンリのやや速過ぎるパスを、メッシが絶妙なトラップで浮かせてボレー。ゴラッソ。さすがにアンリも自分のあのパスを、メッシにあんなふうにトラップされるとは思わなかったのではないか。僕の周囲には、たまたまああいう浮き球になったという意見の人もいたが…。それにしては、浮かせてからボレーまでの一連の動きが、あまりにも確信に満ちたフォームではなかったか?

 試合終了直後、Marca.comにアクセスすると、トップ記事に「メッシこそ10番だ!」の見出しがさっそく躍っている。さすがマドリーのメディアだけあって、メッシのゴラッソはまあ素直に讃えたとしても、反ロナウジーニョ・キャンペーンに叶った見出しの付け方だ(ロニーは今日はお休み)。

吉沢京夫について(2)、または『映画が生まれる瞬間』

2007-09-22 04:08:00 | 
 今日、吉沢京夫について、件の友人Hより追記が電子メールで届いたので、再び引用したいと思う。


「吉沢京夫をめぐる最大の疑問、映画出演から遠ざかった理由はやはり判らない。京大の演劇仲間という経歴は戸浦六宏と同じである。さするに戸浦・渡辺・小松・佐藤と並んで大島一家を形作る可能性はあったと思える。大島との間に何らかの軋轢が生じた可能性は容易に推測できるであろう。」


 以上が友人Hからの電子メールの内容である。だが、創造社がやがて大島プロに発展解消していく過程で、大島渚の忠実なシンパサイザーであった戸浦六宏、渡辺文雄、小松方正、佐藤慶といった常連俳優たちも結局は、大島渚本人によって冷酷に切り捨てられてゆくのである。この冷酷さはカリスマ性の裏返しであったわけで、このあたりの本人の回顧が、写真下掲の梅本洋一著『映画が生まれる瞬間―シネマをめぐる12人へのインタヴュー』(勁草書房 1998刊)に収録されている。これは梅本洋一と僕が共同で行った、大島渚の現役最晩年のインタビューであり、「カイエ・デュ・シネマ」誌のパリ首都圏限定増刊「大島渚:父と息子」特集号に翻訳掲載されるために行ったものである。僕としては、内容的にも自信の持てる取材内容だったと自負している会見であった。

吉沢京夫について

2007-09-20 11:43:00 | 映画
 大島渚監督『日本の夜と霧』(1960)の中で、革新陣営の正式党員であることを笠に着て同級生たちに居丈高に振る舞う「中山」という役を演じ強烈な印象を残した吉沢京夫については、『日本の夜と霧』以外ではわからない、と9/8付けの記事で気安く書いた。
 すると、その件について、友人Hから電子メールをもらった。有用かつ珍しい情報も含まれているため、以下に引用させてもらうことにする(無断引用許されたし、H君)。


「吉沢京夫について、下北沢に吉沢京夫主催の吉沢演技塾(現在は劇団京)があることは、1980年代から知っていた。吉沢の映画出演は他に『天草四郎時貞』と『壁の中の秘め事』だろうか。吉沢は1999年死去。劇団京は今も存在。宮沢章夫氏のブログから、京夫は(たかお)と読むこと、京大で大島と同窓の演劇仲間だったこと、『日本の夜と霧』の時点では、実際に共産党員だったことを知る。宮沢氏も、たまたま劇団京のメンバーと話す機会があり、30年来の吉沢京夫に関する疑問を解いたということである。」


 …なるほど、また1つ勉強になってしまった。持つべきは友達である。