荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ウルヴァリン:SAMURAI』 ジェームズ・マンゴールド

2013-09-29 09:16:04 | 映画
 肥大化したファンタスムに自足した『パシフィック・リム』の横に並べて、私も『ウルヴァリン:SAMURAI』の方を支持したい。ジェームズ・マンゴールドは前作『ナイト&デイ』(2010)で、ラヴとアクション、喧嘩友だち股旅の名人芸を、トム・クルーズという存在を後ろ盾に、ある高みにまで到達させた。残念ながら本作でそれはずっと後退しているが、『X-MEN』シリーズのスピンオフとしてはユニークな位置づけの作品となっていると思う。
 『パシフィック・リム』も『ウルヴァリン:SAMURAI』もアメリカのうらぶれたタフガイが日本の若い女性と出会って恋に落ち、ミステリアスな精神状況に持って行かれる物語で、使い古されたはずの日本のエキゾチズムというものが今なお色褪せることなくアメリカ人を幻惑するなら、それはそれで凄いことだ。『ウルヴァリン:SAMURAI』はかなり失望させられる出来の悪いシナリオのままクランクインしてしまっているのが口惜しいが、男と女のカットバック、見つめあい、視線のそらしといった、愛に関するカットとカット割りがアメコミ・ムービー離れしたねっとりとした充実ぶりを見せている。そして、リュック・ベッソン製作の『WASABI』ではあれほど虫図の走った東京各所の飛びゝゝロケーションが、ここでは微笑ましい出来事として祭り気分で甘受できるのである。
 ただし、マンゴールドはもっと野心的な企画に時間を使うべきだと思うし、ジャンル・フィルムの中にこそ作家主義を見出すという伝統的作法が依然として受け手側によって現在も墨守されているのは、いくぶん違和感を禁じ得ない。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国で上映中
http://www.foxmovies.jp/wolverine-samurai/

『風立ちぬ』 島耕二

2013-09-25 10:36:35 | 映画
 宮崎駿の同名作品の公開に併せテレビ放映された島耕二監督版『風立ちぬ』(1954)を見る。初見なり。結核と心臓病を併発して早世する薄幸のヒロインは久我美子、彼女を見守りそして見送る青年は石浜朗。本映画化の特色は、ヒロインの父親(山村聰)がやもめ同士のよしみで昔取った杵柄、かつての憧れの女性(山根寿子)にプロポーズするというやや生臭い設定が前面にせり出して、長年の闘病でただでさえ弱っているヒロインにさらなる苦悩の種を投げかける点である。
 それにしても久我美子が胸中に孕むあの執拗にして甘美なタナトスは、いったいどこから来たものだろうか? 長年の闘病から来る心身の疲労ゆえ? それとも、常に死と隣り合わせに生きてきた自己の刻印として死の恐怖を手なずけるため? それとも宮崎駿版同様、ひとりの異性に永遠のトラウマを植え付けんとする死を賭しての欲動ゆえ? 父の縁談を聞いて冷ややかな表情に変わる久我美子は、時として『晩春』における原節子のごとき般若の形相を想起させる。
 石浜朗に抱きかかえられたまま息絶える久我美子がその直前、引きの画なので分かりづらいが、右足の膝下を脚気検査よろしくピョロっと弾ませてみせる、その素早い上下運動が、悲嘆に満ちたラストをドライなものに仕立てる。島耕二の本領発揮だろう。そして、信州のサナトリウム周辺の美しすぎる山景をとらえる三村明の透徹したカメラ。戦前に山中貞雄『人情紙風船』(1937)、戦後に原節子がやはりタナトスに絡めとられてゆく観念的な『女医の診察室』(1950)をフィルモグラフィに持つこの名手の技を、画面隅々まで見つめておきたい。

遊園地再生事業団『夏の終わりの妹』

2013-09-21 04:30:18 | 演劇
 東京・東池袋のあうるすぽっとにて、宮沢章夫作・演出、遊園地再生事業団の『夏の終わりの妹』を見る。
 タイトルから一目瞭然、今年1月に逝去した大島渚監督の映画『夏の妹』(1972)に対する、宮沢章夫による40年越しの返歌である。主人公の主婦がひとつの疑問をみずからに打ち立てる。曰く「たまたま観た『夏の妹』のわからなさとは、なぜこれを作ったのかというだけの、ごく平凡な疑問だ」。そしてこの疑問は、この戯曲を書いた作者みずからの疑問でもある。青山真治との対談で作者は述べる。「あれだけ優れた映画を作った大島渚という作家が、なぜあんな弛緩した映画を作ってしまったのか。どうしても納得できない」と。
 私たち映画ファンの常識は以下の通りだ。つまり、1960年代に充実した活動を送った大島の個人プロダクション、創造社もそろそろ前年の『儀式』をもってある高みに達し、賞味期限というか活動のモチベーションが尽きかけていた。風向きを見るに長けた大島はこれをいち早く察知し、みずから創造社をぶち壊すために作品そのものの中に弛緩を導入することを敢えてよしとした、という仮説である。私自身、この考えをずっと持ち続けている。事実、このあと創造社をつぶした大島はフランスとの共闘に入り、『愛のコリーダ』など、よりグローバルな映画製作に漕ぎ出していくのである。
 そんなことは作者の宮沢もとっくに承知のはずで、それでもなお『夏の妹』への疑問のもとに滞留し、沖縄各地の同作のロケ地をめぐり歩き、あまつさえ『夏の妹』への疑問それ自体を演劇作品および小説(すばる9月号所収)の主題としてしまったという、これは妄執が現実を食い荒らしている証左である。そして私たち観客の存在も、妄執によって食い荒らされる現実の一部にすぎぬ。

 本公演の作者に全面的に賛意を示すためという言い訳を作り、ここで手前味噌ながら、雑誌「nobody」に寄稿した大島渚を追悼する拙稿「さらば夏の妹よ」をみずから引用する愚を、どうか許していただきたい。
 曰く「大島死したいま、私はこの『夏の妹』をもっとも欲する。大事なものが喪失する過程にあり、しかもその喪失に対して上の空のまま、なすがままに流されていく無防備な『夏の妹』を、もっとも見続けたく思う。いまこの時、『夏の妹』は大島渚であり、大島渚は『夏の妹』である。大島の告別式で、出棺時にかかっていたのは坂本龍一の『戦場のメリークリスマス』のテーマ曲「禁じられた色彩」だったが、真に流れるべき音楽は、武満徹によるあの甘美きわまりない『夏の妹』の音楽ではなかっただろうか?」

富樫渉『Living with the Dead』& 伊藤裕満『踊ってみせろ』

2013-09-18 01:34:44 | 映画
 PFF@渋谷シネクイントにて、今年度の入選作2本、富樫渉『Living with the Dead』および伊藤裕満『踊ってみせろ』を見る。

 前者は私の所属プロダクションの後輩が撮ったゾンビ物。ゾンビとの共生社会が模索されるという奇妙なテーマが追究されるが、主人公が生身の人間──たとえば妹であるとか、あきらかに主人公に気があるバイト先の同僚女性──に対しておそろしく冷淡で、その代わりになぜかあるゾンビを自分のアパートに住まわせ、高額な肉を買って与えたりすることに幸福を感じている。
 観客は、ゾンビの心境が分からないのは納得するが、主人公の心境がゾンビ並みに分からないというのは、かなりのストレスとなる。作者はそのストレスそのものを画面から湧出させようとしている。フィリップ・カウフマンを継承しようとする気迫に拍手。

 後者は、内容紹介文に「30過ぎで無職の男がやがて孤独に至る様を、長回しを用いてわずかなシーンで描く」と書いてあり、見たくないと思いつつ嫌々見た。見終わったいま言えることは、登場人物とカメラとの絶妙な距離計測、間が間のための間になっていない呼吸の確かさに舌を巻いた、ということである。

 2監督とも入選おめでとうございます。精進して良い監督になってくださいね。

『夏の終り』 熊切和嘉

2013-09-15 09:53:27 | 映画
 熊切和嘉監督、満島ひかり主演、瀬戸内寂聴の原作の『夏の終り』。日本映画界にとっては文句のない好企画で、日本映画の良き伝統の血脈を継ぐ気迫が漲っている。ことに最近絶好調の満島ひかり。以前からこの人のかなり小さなアゴの形を見てきて、将来この人は、たとえば成瀬の映画に出てくる了見の狭い親戚のおばさん役だとか、やたらと口うるさい母親とかそういう役で大成するのではと思っていた。ところが世の作り手というものは、なんと貪欲なのだろう。多少いじけていはいるものの、満島ひかりを、男という男の肉体のあいだを揺れ動く淫らな一人の愛の囚われ人として濃密に描こうとするのだから、面白い。
 熊切和嘉の演出に不満がないわけではない。ヘンテコなストップモーションを背景に施してみたりするのは、無駄な抵抗ではないか。満島ひかりの生理に寄り添った画面作りはある程度功を奏しているのに、全体を通した場合、異化効果を取り入れる監督の存在が作品にプラスになっていない。豪雨のSEなど、音響のテロリスト菊池信之の個性に負んぶに抱っこになっているシーンも多々あり。


有楽町スバル座ほか全国で公開中
http://natsu-owari.com