荻野洋一 映画等覚書ブログ

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松本裕子Objet展@Gallery SU

2016-07-25 23:44:08 | アート
 東京・麻布台のGallery SUで見た松本裕子さん(ふだんは「涙ガラス制作所」として活動 今回初めて本名を知った)のオブジェ展が素晴らしく、2回も見に行ってしまった。この作家を知ったのは偶然で、わが「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」時代の編集委員仲間である廣瀬純の著書『暴力階級とは何か』(2015 航思社刊)の表紙を飾った写真家・中村早さんの作品展を今冬に見に行った際に、一緒に松本裕子さんのガラス工芸作品も展示されており、その見た目は矮小・繊細・脆弱に見えながら、頑強さと放縦さとを体現するガラス作品の数々に、感銘を受けたのである。
 今回はガラス作品ではなく、木彫作品の展示だった。女性のクビが4体ほど。手首が2体ほど。ガラスと立体図形の組み合わせが数点。そして鳥の翼が1対。女性のクビをゆっくり回していくと、木彫とはいえ、彼女たちには固有の人格が宿っていることが手に取るにように分かる。いずれの顔も愁いを帯びて笑顔はないが、決して暗く沈んではいない。むしろ話しかけられるのを待っているような、何かを待機しているような表情に見える。そしていずれのクビにも共通する、後ろで束ねた髪の毛。目は口ほどに物を言い、というが、後ろ頭の髪の束も私には雄弁に思える。感覚の集約を感じさせるのだ。
 そして、鳥の翼。翼の単体で、胴体は作者によって放置され、今回は展示されなかったのだという。胴体から切り離され、無残にもがれた翼はそれでも凛とした威厳を失っておらず、マグネットによってさまざまな鉄にぴょんと吸い付いて、ペットのようにも見える。もがれた翼といえば、どうしてもヴィム・ヴェンダースの代表作『ベルリン 天使の詩』(1987)における、天使から切り離された翼を思い出す。そしてそれは元はといえば『嘆きの天使』(1930)のマルレーネ・ディートリッヒに遡っていく。
 ディートリッヒの時代錯誤な翼を復活させたのが、ディズニー映画『マレフィセント』(2014)におけるアンジェリーナ・ジョリーのもがれた両翼だった。ジェームズ・キャメロン、ティム・バートン、サム・ライミの美術監督を歴任したロバート・ストロンバーグの監督デビュー作である『マレフィセント』には、美術畑出身ならでは美学がたしかに花開いていた。
 そんな、あらぬ夢想と共に、同ギャラリーで松本さんの作品たちを見つめてきた。全作品が売れてしまった最終日、展示を終えた作品たちは梱包され、私たち鑑賞者はもちろん、作者本人のもとからも立ち去っていくのだろう。あらたな持ち主のもとで、マレフィセントの羽のごとくそれは保管されていくのだろう。そうした感慨と共に、ロベール・クートラス(クトゥラ)のコレクションをもつGallery SUの美しい昭和モダニズム(1936頃築)の洋館を後にした。


Gallery SU(東京・麻布台)
http://gallery-su.jp/exhibitions/2016/07/objet-1.html


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