根津美術館で《井戸茶碗》を見る3日前、田中光敏監督『利休にたずねよ』を見た。なにやら茶の湯ずいた日々となったが、この映画はもっと別の演出を施したなら傑作となったのにと老婆心がうずく、少しばかり惜しまれる作品である。
織田信長にも太閤殿下にもかしずかなかった千利休が激情的なまでに美に服従する理由を、過去の恋愛体験に遡行して探りあてる物語。しかしながら、モノ、ヒト、コトガラが有機的にからんでいかず、お行儀のいい謎解き物語になってしまったうらみが残る。
ただ、六本木クラブでの暴力沙汰や傲慢な人柄がマスコミでさかんに報道されるなど、モンスターのイメージが定着した十一代目市川海老蔵が、勝新太郎の怪人ぶりと、同じ姓を持つ市川雷蔵のニヒリスティックな形式美を併せ持つ逸材であることが垣間見える。所作の才能が一挙手一投足に見えるのである。勝新と雷蔵のイメージが共有されたのか、撮影・照明ともに、溝口健二・伊藤大輔・三隅研次・森一生・田中徳三らを代表とする往年の大映京都撮影所のごとき陰影礼讃を見せてくれた。
戦国時代に全盛を迎えた「茶の湯」という、即興演劇と美術鑑賞とグルメ修行とがグジュクチュに合体した、世界でも類例を見ぬ独特の芸術形式は、「一期一会」という観想を根本としている。「わたくし千利休が、あなたというサムライに茶を点てました。かくなる上はこれを名誉と思っていただき、主君のためにどうか戦場で思う存分に暴れて、悔いなく死んできてください」という死刑宣告を、ボウル一服の液体と、壁の掛け軸と、竹筒に挿した一輪の花で言いくるめてしまう、1万ボルトの電気椅子のごときじつに兇暴な装置なのである。女子高校の花嫁修業とはいっさい無縁の、血なまぐささである。
利休とは、信長・秀吉につかえた、寸分の狂いなく美の意匠によって装飾された死刑執行人である。この点を、海老蔵はとらえ損ねることなく、ワビ・サビをぎらぎらと体現してくれた。
そして、日本の茶人の間で珍重され、諸大名が大判小判をはたき競って手に入れようとした「井戸茶碗」なるシロモノが、じつは朝鮮半島の名もなき陶工が土をこねて焼いた、単なるビビンパ用の雑器に過ぎなかったように、隣国・朝鮮の存在が日本人にとって永遠に(おそらく先史時代から)アンビバレンス的対象だったことが、現在の(朴正煕の娘と岸信介の孫によるツンデレごっこが延々と続く)芳しからざる日韓関係の只中にあって、あからさま過ぎるほどに諭される。
李氏朝鮮王朝の公主(「コンジュ」 日本では皇女にあたる)が利休の前に現れて、アフロディーテの役柄を演じる。死刑執行人としての利休の生涯が、この薄幸の姫とのロマンスの結末によって方向付けられた、と説明してみせたのが本作である。「死刑執行人もまた死す」、である。
そして、韓国のセクシー女優クララがその役柄にリアリティを与えた。これは絶妙なキャスティングである。
丸の内TOEIなど全国東映系ほかで公開中
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