荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『義人呉鳳』 千葉泰樹、安藤太郎

2014-11-30 05:31:03 | 映画
 東京国立近代美術館フィルムセンター(東京・京橋)では、6週におよぶ千葉泰樹(1910-1985)のレトロスペクティヴが始まって2週間が経過しようとしている。1930年代終わりから40年代初頭にかけて南旺映画でつくった『空想』『秀子の応援団長』『煉瓦女工』『白い壁畫』という4本が、千葉のキャリアにおける1回目のピークを成していた、と聞いている(私個人としてはこの4本を見るためのスケジュール調整がつかず、残念至極である)。
 大河内伝次郎、笠智衆らが迫真の演技をみせる『生きている画像』(1948)、伊豆肇、島崎雪子という「千葉組」カップルがみずみずしい『夜の緋牡丹』(1950)、加東大介の一世一代となる『大番』4部作(1957-58)、山田五十鈴が女のサガをまき散らす『下町(ダウンタウン)』(1957)、大島渚『太陽の墓場』と同じ年につくられ、同じ大阪あいりん地区を舞台とする群像劇『がめつい奴』(1960)など、スタジオ・システム全盛期を推進した代表的な名手として、千葉泰樹はその名を歴史に刻んでいる。
 現存が確認されている最古の千葉作品『義人呉鳳』(1932)を、今回初めて見ることができた。この年、千葉は在籍した河合映画(跡地には現在「にしすがも創造舎」がある)から新興の富国映画をへて、台湾プロに移籍する。同プロで、台湾出身の安藤太郎と共同演出したのが『義人呉鳳』である。時代は清朝中期。首刈りで有名な台湾先住民、いわゆる「高砂族」が、福建省から派遣された知事・呉鳳(ウー・フェン 1699-1766)の献身的な説得によって、部族の重要な儀式であった首刈りをあきらめるまでの経緯を語る。
 「高砂族」(以前の日本での呼称)といえば私の少年時代、東京藝術大学の音楽学者・小泉文夫(1927-1983)が1980年代初頭までDJをつとめたNHK-FMの『世界の民族音楽』という番組のなかで、氏自身によって現地録音された首刈り儀式の音源が、たっぷりと紹介されていた。小泉氏が「台湾の山岳民族の音楽は、いくさの強い部族ほどその音楽性も優れている。つまり、優れた音楽をあみだした部族はそれだけ文明も先進的で、劣る部族は首を刈られ、そうやって淘汰されて、優れた音楽だけが残ったのだ」と述べていたことを、子ども心に印象深く憶えている。女性タレントのヴィヴィアン・スーも、この高砂族の出自とのこと。舞台となる阿里山は、現在では農地として整備され、台湾の銘茶である「阿里山烏龍茶」の名産地となっている。
 『義人呉鳳』は、弱冠20歳で監督デビューした千葉泰樹22歳の時の作品であるが、演出の達人としての才能が、早くもこの時点で発揮されている。映画監督になるために生まれてきたような人である。


東京国立近代美術館フィルムセンター(東京・京橋)にて《映画監督 千葉泰樹》開催中
http://www.momat.go.jp/FC/fc.html

美々卯での記憶 覚書

2014-11-27 01:04:36 | 映画
 京橋「美々卯」の前を通りがかる。こんな寒い日は、うどんすきに熱燗なんてやったらさぞかし暖まっていいだろうが、我慢、我慢である。フィルムセンターで千葉泰樹を見るのが先決だからである。京橋の「美々卯」といえばここで、パスカル・ボニゼール、梅本洋一、坂本安美、私の4人で『アンコール』のTIFFコンペティション無冠残念会をやった思い出がある。1996年の秋だった。もう18年も前のことになってしまうのか。
 TIFFの会期中にボニゼールは、デビュー作『豚が井戸に落ちた日』を携えてきた韓国の新人監督ホン・サンスと仲良くなっていたらしい。ホン・サンスもその残念会に参加したそうにも見えたが(ホン・サンスも無冠に終わった)、あの頃はまだその若者が何者かよく知らず、東急Bunkamura前の通りで、4人だけでタクシーを拾ってしまった。大変失礼なことで、あの瞬間も私たちの心は曇ったが、私はそのことが依然として気にかかっている。とはいえ、いまや世界的な大監督になられたホン・サンスに、この小事を詫びる機会はもうあるまい。
 「美々卯」のあと、飲み足りないので、ボニゼールの宿泊するホテル西洋銀座のバーで飲み直した。押しも押されもせぬリヴェットの脚本家なのだから、TIFFの選考結果なんぞさして関心なかろうとこちらは勝手に思いこんでいたが、ボニゼール本人は意外なほど落ち込んでいる。やっぱり作家ってそういうものだよなと、改めて思った。
 そのホテル西洋銀座も今や解体中である。幼少期から少年期にいたる「テアトル東京(およびその地下にあった名画座のテアトル銀座)」の思い出がまずあり、そのテアトル東京の建物が壊され、次いで青年期における「ホテル西洋銀座」およびその3階の「銀座セゾン劇場(のちの「ル テアトル銀座 by PARCO」)」、5階の「銀座テアトル西友(のちの「銀座テアトルシネマ」)の思い出がある。現在解体中のこの建物、どうなるのであろうか? この地は、70年間にわたって映画館があった地である。その命脈もこんどばかりは途絶えてしまうのかもしれない。今年は日本橋にTOHOシネマズの9スクリーンがオープンして、有楽町については、ニュー東京ビルが取り壊されるらしい件を除けば、とりあえず健在である一方、その中間にある新橋、銀座、東銀座が、いつの間にか映画不在の地になりつつある。

『ディーブ』 ナジ・アブヌワール @東京フィルメックス

2014-11-26 02:25:01 | 映画
 東京フィルメックスのコンペティションで上映された『ディーブ』の引き締まった画面に感銘を受けた。少年の冒険心と成長、西欧近代への嫌悪感、「目には目を」式の報復への肯定。それらをやや教条的に描きすぎるきらいはあるけれども、時空間演出の鋭さが、その疵瑕を補って余りある。第一次世界大戦期、オスマン帝国支配下のアラビア。遊牧民の兄弟が、極秘任務を負っているらしいイギリス人将校に道案内を頼まれて出発し、道中でラクダ泥棒の一味に襲われるという物語である。
 砂漠での最初の晩。人物が集落に訪ねてくるときの、気配だけがかすかに先行しながら、夜の闇から、あたかもサイレント映画時代の「アイリスイン」の技法のごとく姿がヌうっと現れてくる。その現れ方がじつにすばらしいのである。そして、主人公一行が盗賊の襲撃を受ける舞台となる、岩盤が垂直に切り立った窪地のような空間、これもまたすばらしい(真ん中になぜか井戸がある)。夜の闇の中で、この岩盤を登ったり下ったりしながら銃撃戦がおこなわれる。砂漠の夜のことだから、ほとんど何も見えない。にもかかわらず、見ている観客には「すごいことが起きてるぞ」という実感を抱かせるにじゅうぶんである。
 舞台となったアラビア半島西部ヒジャーズ地方から察するに、終盤に登場する線路はヒジャーズ鉄道であろう。デヴィッド・リーン監督『アラビアのロレンス』(1962)で主人公(ピーター・オトゥール)や親英派の遊牧民(オマー・シャリフ)らが破壊する、あの鉄道である。『アラビアのロレンス』を愛する者には、なんとも感慨深いものがあった。
 本作の極めつけは、終盤に出てくるオスマン・トルコ帝国の兵営のすばらしさだろう。古城の廃墟に駐留しているオスマン兵たちのたるみきった態度に泣けてくる。おそらくイギリス軍やアラブ人ゲリラによる鉄道襲撃に備えた駐屯だろうが、たるみきっており、戦意がまったく感じられない。栄光のオスマン帝国も末期はこんな感じだったのかと(ところでオスマン軍の兵隊は洋装なのですね)。
 それにしても、廃墟の佇まいといい、兵隊どものたるみ方といい、あたかも西部劇に出てくるメキシコ軍の宿営地のようである。そうなのだ。これは西部劇なのだ。オスマン軍をメキシコ軍に見立て、ラクダ泥棒を馬泥棒に見立て、砂漠と鉄道と、そして切り立った岩盤の窪地。アラブの砂漠にセルジオ・レオーネが、アンソニー・マンが、バッド・ベティカーが、ヒューゴ・フレゴニーズ(ウーゴ・フレゴネーゼ)が、映画霊として跳梁跋扈している。これはかなり貴重なる映画体験ではないか。


第15回東京フィルメックスが有楽町マリオンで開催中
http://filmex.net/2014/

『喜びなき街』 G・W・パプスト

2014-11-24 08:41:31 | 映画
 先日開催されたフィルムセンター(東京・京橋)のフィルムアルヒーフ・オーストリア特集は、レアものに彩られた垂涎の企画だった。本特集のうち私が以前に見たことのある作品は、ゲオルク・ヴィルヘルム・パプスト監督の代表作『喜びなき街』(1925)のみである。しかし本作を前回に見たのは20歳くらいであり、今回も初見に近いほどの新鮮な感動を味わったことを記しておかねばならない。
 私が『喜びなき街』を初めて見たのはドイツ文化センター(東京・青山)だったと思うが、その際の上映時間は、たぶん80分か90分程度だったはずである。痛烈な社会批判がアダとなり、検閲での大幅なカットによって短縮された本作のうち、旧ソ連に保存されていたプリントによって多くのシーンがあらたに復活し(資本主義の腐敗を糾弾するためもあって、ソ連ではカットが少なかったとのこと)、今回リリースされたフィルムセンターのちらしには「142分」と記載されている。上述のごとき「初見に近いほどの新鮮な感動」がもたらされた理由は、決して私の感性がみずみずしいからではないし、逆に物忘れのひどいボケ頭だからでもない。単に、初見シーンが多いためである。
 ところが今回の上映の前に、フィルムアルヒーフの技術部長を日本人でありながら務める常石史子さん(2001年に休刊した映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」の編集委員仲間である)がおこなったスピーチによれば、彼女自身が記載したというこの「142分」という上映時間も、どうやら間違いであるらしく、実際には「もっともっと増えている」ということで、「たいへん長い作品」に変貌したというのである。事実、登場人物たちに襲いかかる経済的困難、降りかかる不幸な事件の数々が、おそろしく引き延ばされてゆく。この痛苦の引き延ばしそれじたいが本作の主題だ。私たち観客は、グレタ・ガルボやアスタ・ニールセンら美しき女優陣の苦痛に歪んだ顔貌を、3時間近くにわたって凝視する贅沢に恵まれた。

 この『喜びなき街』に限らず、若い映画ファンにとって、G・W・パプスト、F・W・ムルナウ、フリッツ・ラング、ロベルト・ヴィーネ、エルンスト・ルビッチ(私の20歳のころは「ルビッチュ」という表記だったが、いつのまにか「ルビッチ」が一般的となった)ら、第一次世界大戦後につくられたサイレント期のドイツ映画のハイレベルぶりを知っておくことは、好き嫌いうんぬんを語る以前の必須科目であり、基礎のドリルである。
 たとえば蓮實重彦が、アメリカ亡命時代のフリッツ・ラングを賞揚する際に、ドイツ時代のラングに対してネガティヴな言説を加えたとしても、それはあくまでアメリカ渡航後のラングへの不当な評価を覆すための言葉のテクニックであって、「ドイツ時代のラングを見なくてよい」という単純なサインではない。なのに、『条理ある疑いの彼方に』や『スカーレット・ストリート』を見ている人間が、『死滅の谷』や『ニーベルンゲン』を見ずに済まして平然としている。これはほんとうに信じがたいことである。

ダメよ、ダメダメについて

2014-11-21 01:19:04 | 映画
 今年の流行語大賞に「ダメよ、ダメダメ」がノミネートされたようだが、そもそもこのフレーズは、小津と野田高梧が50年も前に発明したものである。どうか思い出していただきたい。

三浦(吉田輝雄)「(幸一に)きのう、あれから友だちんとこ寄ったんですよ。そしたらヤツもあてにしてたところなんで、困っちまいやがってね」
幸一の妻・秋子(岡田茉莉子)「三浦さん、アンタ押し売りに来たの?」
三浦「冗談じゃない、ちがいますよ。これ、奥さんホントにいいんですよ。他のヤツに渡したくないんだ。月賦でいいって言うんです」
幸一(佐田啓二)「月賦?」
三浦「ええ」
秋子「月賦だってダメよ、ダメダメ
三浦「そうかなぁ、ダメかな。2000円で10ヶ月、安いんだけどなぁ」
秋子「ダメダメ、ダメよ
三浦「そうかなぁ。僕なら買うけどな」
秋子「じゃあアンタ、お買いなさいよ」
三浦「いやぁダメなんです。金ないんです」
秋子「じゃあ変なもの、すすめないでよ。とにかくそれ、いらないの。持って帰ってよ」
三浦「そうですか…」
 秋子、プイッと台所のほうへ立ち去る。
三浦「(幸一に)悪かったですね。奥さん怒らせちゃって」
幸一「いやあ、いいよ。あいつは朝から機嫌が悪いんだ」
三浦「でも悪かったな」
幸一の妹・路子(岩下志麻)「うふふ」
秋子「(台所から戻り、千円札2枚を三浦の前に置いて)はい2000円、1回分」
三浦「いいんですか」
秋子「いいのよ。このへんで買っとかないと、あとうるさいもん」
路子「うふふ、よかったわね、兄さん」

 1962年『秋刀魚の味』、マクレガーのゴルフクラブをめぐるやり取りである。「ダメよ」と発音する際の岡田茉莉子のエロキューションが完璧で、この時点でこのフレーズは完成の域に達していた。とりあえず覚書までに──