荻野洋一 映画等覚書ブログ

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春で朧の京都で、溝口健二の時代考証を担当した甲斐庄楠音の絵を見る

2014-04-25 03:55:03 | アート
 2009年、文藝春秋の子会社である求龍堂から、甲斐庄楠音(かいのしょう・ただおと 1894-1978)の画集『ロマンチック・エロチスト』が出版されたとき、これはすごい画集だと思った。酒井抱一にしろ池大雅にしろ、あるいは松岡正剛『千夜千冊』にしろ、求龍堂の出版活動には度肝を抜かされることが少なくないが、『ロマンチック・エロチスト』はその中でも指折りにやばい部類に入る。
 うす気味悪い女たちの肖像画がこれでもかこれでもかと掲載(美しいのもあれば醜いのもある)されているのに留まらず、画家みずからが女装して自己陶酔しきった写真もたくさん掲載されている。中には、それなりに色っぽく撮れているものもあるが、見るに堪えない代物もある。果ては彼のスクラップブックもスキャンされて掲載されているが、最後の方はエロ本からの切り抜き帖といった体だ。

 そんな甲斐庄の作品を初めて実見する機会があると聞いて、春爛漫の京都に飛んだ(左京区岡崎の京都国立近代美術館)。上記画集に掲載の絵たちが、私の眼前にものすごい轟音を奏でながら屹立している。日本におけるデカダンの極致と私が位置づけたいのは次の二人──この甲斐庄楠音と、それから冷泉為恭(れいぜい・ためちか 1823-1864)である。後者の為恭のばあい「冷泉」などと名乗っているが、これは冷泉家(藤原定家の末裔)に無断で勝手に名乗ったに過ぎない。しかし為恭は、幕末に尊攘派の志士に暗殺されるというバイオグラフィによって、京都文化史にあやしげなデカダンを振りまくことに成功したのである。
 楠音と為恭、両者に相通じるのは、近代の荒波にあってもなお、公家文化の雅に染まりきっている点である。そしてそれは当時においてすら、もはやフィクショナルかつ擬態的なものであった。冷泉為恭については、遅かれ早かれどこかに書くことになるだろう。

 私たち映画ファンにとって甲斐庄楠音という存在は、画家としてよりも、溝口健二や伊藤大輔ら京都の映画作家たちのために風俗・時代・衣裳考証をつとめた人物として名高いだろう。映画界における30年のキャリアが甲斐庄の美術家としての生命を台無しにしたという評価もあるが、『雨月物語』(1953)ではアカデミー衣裳デザイン賞にノミネートされている。溝口健二の『歌麿をめぐる五人の女』(1946)で、主人公の喜多川歌麿と狩野派の絵師が、絵のテクニックの果たし合いをする場面があるが、ここで戦いの小道具として描かれる観音像は、まぎれもなく甲斐庄の手になるものだ。
 甲斐庄と溝口のなれそめは1939年の『残菊物語』だったそうだが、そこで描かれた上方歌舞伎の非情なる世界こそ、甲斐庄が最も自家薬籠中のものとしていた宇宙ではなかったか。


京都国立近代美術館《生誕120年 甲斐庄楠音特集》は5/11(日)まで開催
京近美コレクション・ギャラリー平成26年度第1回展示
※今春の京近美のコレクション・ギャラリーは、一粒で何度もおいしい展示となっていてオススメです。まずエルンストとピカビア、ふたりのダダイストの絵を同館が新規購入したということでお披露目しています。そして次にこの甲斐庄楠音レトロスペクティヴ。都築響一〈着倒れ方丈記〉も非常にアクチュアルで面白いコーナーでした。これは京都というよりきわめて東京的な展示です。そして《チェコの映画ポスター》展。ミロシュ・フォルマン、ヴェラ・ヒティロヴァーといったチェコ映画に留まらず、アメリカ映画、ヌーヴェルヴァーグを当然含むフランス映画、そして日本映画のチェコ版ポスターを見ることができるのですが、それらはいずれもデザイン的におそろしく秀逸です。ブレッソン『やさしい女』のポスターは美術作品としても一級品だと思います。

『サンブンノイチ』 品川ヒロシ

2014-04-22 23:23:16 | 映画
 世の中には、伊藤俊也の『ロストクライム 閃光』であるとか角川春樹の『笑う警官』のような、なぜこんなものが作られてしまったのか見当もつかない、おそろしく無惨なる愚作というものが厳然と存在してしまうから、一人前の映画ファンの定義のひとつに、少々の駄作、凡作を見たくらいでうろたえたり、金を返せなどとヒステリーを起こしたりしない耐性を身につけた者たち、ということがあるのではないか。そして、その伝で言うなら『サンブンノイチ』は大丈夫なのではないか。
 金庫破り、銀行強盗の映画と聞いて、映画をまともに見てきた人なら、前田陽一の『三億円をつかまえろ』(1975)くらいのレベルのものを期待する権利はある。ところが驚くべきことに、『サンブンノイチ』では金庫破りも銀行強盗も描かれていないのである。いや、申し訳程度に描かれていたような気もするが、正直もう憶えていないというレベルである。
 犯人三人組のアジトであるキャバクラの店内で、三人組──藤原竜也、小杉竜一、田中聖──が札束の分け前をめぐって化かし合いをする。そして、このズッコケトリオ結成のいきさつがフラッシュバックされる。それがどうやらこの映画の本筋らしい。「人生の一発逆転をかけた大バクチ」などというふれ込みで藤原竜也が登場すると、『カイジ』『カイジ2』の続きを見ているかのような既視感がある。
 「窪塚洋介演じるイカれたヤクザが突然シネフィル批判を始めたところでマジでドン引き」とgojoさんが書いているが、まったく異存なしである。作者の感覚はずれてる。
 珍しく川崎の風俗街・堀ノ内がメイン舞台になっていて、猥雑な空間にスポットが当たることがどんどん減っているから興味津々だったが、あまり街の空気が伝わってこなくてもったいない。


角川シネマ新宿(東京・新宿文化ビル)ほか全国公開
http://www.sanbunnoichi.jp

『キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー』 ルッソ兄弟

2014-04-20 07:22:05 | 映画
 マーベル・コミックの映画化『アベンジャーズ』(2012)は総花的で、さして感興を呼ばなかったが、今回の新作『キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー』の頑張りには快哉を送る。前作から引き継がれたキャラとしては、今回の主人公キャプテン・アメリカ(クリス・エヴァンス)のほか、ウィンター・ソルジャー(セバスチャン・スタン)、ブラック・ウィドウ(スカーレット・ヨハンソン)、ニック・フューリー長官(サミュエル・L・ジャクソン)、ペギー・カーター(ヘイリー・アトウェル)、マリア・ヒル(コビー・スマルダーズ)、ゾラ博士(トビー・ジョーンズ)など多数で、私のような不真面目な観客にはいちいち把握できない。今回はアイアンマンもハルクも登場せず、したがってグウィネス・パルトロウもお休みであるという点が、淋しいといえば淋しい。それだけにいっそうスカーレット・ヨハンソンの性的魅力がクロースアップされるしくみだ。
 スカーレット・ヨハンソン扮するブラック・ウィドウは、秘密文書提出のシーンでも分かるように、ウクライナ人だ。これもまた、現代の紛争地図からするときな臭い。ブラック・ウィドウの本名ナターシャ・ロマノフから言って、おそらく彼女はウクライナ人ではなく、ウクライナ領内のロシア系住民の出身ではないだろうか。しかもロマノフという苗字は、帝政ロシアの皇室の姓である。
 今回作品に緊張感をもたらすのは、「世界の警察」の自称をいまだ捨てないアメリカ合衆国が、全世界に向けてテロリストの予備軍となりそうな人物像2000万人をあらかじめあぶり出し、衛星空母からその人たちを一斉に狙撃するシステムを作りあげるという想定のためであろう。この映画を見てテロリスト候補2000万人などという膨大な数字を出されると、私自身が当たり前のごとくそれに該当してくるという気がしてしかたがないし、この計画を阻止しようと内ゲバを開始する主人公キャプテン・アメリカをひたすら応援したくなるのである。アメリカの国防システムがナチスの残党「ヒドラ」(映画内では「ハイドラ」と発音されていた)に乗っ取られているという壮大な陰謀論は、あながち突拍子もない設定ではない。


TOHOシネマズ日本橋、丸の内ルーブルほか全国で上映
http://studio.marvel-japan.com/blog/movie/category/captain-america2

『フルートベール駅で』 ライアン・クーグラー

2014-04-18 01:16:58 | 映画
 アカデミー作品賞受賞の『それでも夜は明ける』と同じく、『フルートベール駅で』も黒人差別をめぐる実話である点が大きい。1841年の南部プランテーションで主人公は奴隷として扱われ、2009年ベイエリアの主人公は鉄道の公安部隊に無意味な発砲を受けて死亡する。この間の時差は170年近いが、文明は思ったよりも進歩していないことが分かるだろう。ベイエリア高速鉄道(BART)フルートベール駅のプラットフォーム上で主人公は訳の分からぬまま撃たれてしまうのだが、彼の一日が親密な日記のように展開される。
 主人公がスーパーの食肉係を解雇されたこと、きょうが大晦日だからサンフランシスコ湾でのカウントダウンイベントを見に行こうと計画していること、実家の忘年会に出席して母親から「道路の渋滞がひどいので電車で行ったほうがいい」と諭されること、妻の姉に預けた幼い娘が不安そうな表情で両親の夜遊びを見送ること、ラッシュ状態となっている帰りの電車で、昼間に親切にしてあげた白人女性に再会して声をかけられること、そしてたまたま同じ車輌に乗り合わせ、彼の名を呼ぶその女の声を聞いた彼の敵対グループが彼に気づいてしまうこと、エトセトラエトセトラ。
 まさに運命の、偶然の戯れが、主人公の死を手繰り寄せてしまうという描写をさりげなく案配して、気の毒な主人公を私たち観客全員が悼むように作り込んでいる。病院の手当も空しく絶命した主人公の体を前に、母親はこう嘆くのだ。「私が電車で行けと言いさえしなければ!」
 本作のうまいのは、主人公も無傷の存在ではないことを示している点だ。つまり彼がかつてはヤクの売人で、懲役刑に服したこと、更正した現在も寝坊と遅刻の常習犯で、悪友たちですらそのことに呆れていることなど。
 『ロッキー』(1976)という三流ボクサーのシンデレラストーリーがあったが、あの映画が頭脳的だったのは、試合が主人公の判定負けに終わるという点だ。それでもロッキー夫婦はリング上で幸福の絶頂を味わい、しかも判定負けというグレーな決着が絵空事じみたストーリーにどことなくフェアな印象を持たせることに成功したのだ。この『フルートベール駅で』も、主人公のネガティヴな部分を克明に描くことによってロッキー効果をもたらしている。


ヒューマントラストシネマ有楽町(東京・有楽町イトシア)ほか全国で順次上映
http://fruitvale-movie.com

『セインツ 約束の果て』 デヴィッド・ロウリー

2014-04-14 06:39:26 | 映画
 『セインツ 約束の果て』を見ているうちに、冒頭から作品のふところへと誘いこまれ、からめ捕られていく感覚に襲われる。
 良からぬ稼業で生計を立てているらしい若い夫婦が、テキサスの広大な荒れ地の中を歩きながら口げんかしているシーンで幕を開ける。歩くふたりの輪郭は日没前の低い逆光を受けて、にぶい輝きを帯びている。「実家へ帰る」と吐き捨てながら足早に歩いて行く若妻(ルーニー・マーラ)の機嫌をなんとか直そうと、夫(ケイシー・アフレック)は必死に求愛の言葉を繰り出しながら彼女に追いすがる。妻の口から妊娠の事実が告げられ、それがきっかけとなってこのシーンはいっきに雪解けとなるが、彼らふたりの心理的推移は、逆光の影の中からもはっきりと見て取ることができる。
 早朝、夕方、真夜中といった時間のロケーションを多用しながら、ぜいたくとしか言いようのない停滞が画面をじわじわと活気づけ、ピカレスク・ロマンと西部劇の中間地点で酔わせてくれる。
 出産前の最後の仕事でしくじり、刑務所に入った男は数年後、愛する妻とまだ見ぬ娘に会いたい一心で脱獄をはかる。彼は一目散に妻と娘の暮らす住居を訪ねるかと思いきや、ペナルティエリアの外で留め置かれる。そして、親友である黒人(ネイト・パーカー)が経営するバー(このバーがさすがテキサスで、黒人が経営しているとは思えぬ、カントリー&ウエスタンなサルーンの趣きなのだ)の2階に匿われながら、自分と妻の育ての親(キース・キャラダイン)のもとへ面会に訪ねたりしているのみだ。ケイシー・アフレックとルーニー・マーラとのはざまには、目に見えぬ不可侵ラインが引かれているのだろう。このラインの苛酷すぎる引かれ方に、それを見る私たちは戦慄と哀切を感じるほかはないのである。
 35mmのフィルム撮りとのことだが、惜しむらくはブルーレイ上映であるため、シネマート新宿の小さい方のハコでさえ、画質がきびしい。もう少し良質な素材で見たかった。


シネマート新宿(東京・新宿文化ビル)ほか全国で順次公開
http://www.u-picc.com/saints/