荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『アレクサンドリア』 アレハンドロ・アメナーバル

2011-03-29 02:35:50 | 映画
 ウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールの共著『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』の最も中心的な主題は、名高いアレクサンドリア図書館が災害に遭って(人災も)、貴重なる知の集積が永遠に失われてゆくということにあった。
 そしてそのアレクサンドリア図書館の終焉そのものの映像化に挑んだのが、『アレクサンドリア』である。ローマ帝国崩壊期の4世紀末から5世紀初頭。最後の図書館長テオン(マイケル・ロンズデール)と、彼の愛娘で天文学者・新プラトン主義哲学者の女性ヒュパティア(レイチェル・ワイズ)が、当時新興だったキリスト教の信徒たちから疎外され、北エジプトの地でかろうじて命脈を保ってきたギリシャのヘレニズムが、正真正銘終わりを告げる瞬間である。そういう意味で本作は、オリヴァー・ストーンの『アレキサンダー』(2004)のラストシーンでプトレマイオス(アンソニー・ホプキンス)が大王の偉業を新都市アレクサンドリアで知的に継承していく場面に対する、遙かなる続編とも言える。マイケル・ロンズデールは、『ミュンヘン』『宮廷画家ゴヤは見た』、そして現在公開中の『神々と男たち』と好演が続き、ここへ来て絶好調である。
 ひとつの文明の終焉、時代の終焉。ヒロインのヒュパティアが虐殺される場面で、アレクサンドリア司教区教会に彼女を連行する、陰鬱な暗鼠色のベールを被った狂信的なキリスト教徒たちに対して、彼女がまとう緋色のギリシャ風衣裳の、なんという鮮やかなる対照であることか。その対照ぶりは、来たるべき鈍重な中世に対する、古代による物言わぬ優位性を雄弁に物語るだろう。ピタゴラス(582-496B.C.)の誕生以来綿々と続いてきたギリシャ哲学、その最後の末裔たるヒュパティア(370?-415A.D.)の著作は、おそらくキュリロス司教の命を受けたキリスト教徒たちが焚書したものと思われ、現在には一冊も伝世していない。
 ローマ帝国のアレクサンドリア属州長官でヒュパティアを慕う実在のオレステスを、『ワールド・オブ・ライズ』『ロビン・フッド』とリドリー・スコット作品に連続出演のオスカー・アイザックが演じ、ヒュパティアの奴隷でおそらくは架空の登場人物ダオスを、『ソーシャル・ネットワーク』でインド系資産家の子息役だったマックス・ミンゲラ(『イングリッシュ・ペイシェント』『リプリー』の監督アンソニー・ミンゲラの長男)が演じている。今ハリウッドで最も勢いのある役者たちの競演を見られるという点でも、楽しみをたくさん与えてくれる作品である。文明の終焉を赤裸々に描いているという点では、現在の私たちにはつらい、身につまされる内容ではあるが。


丸の内ピカデリーほか全国順次公開中
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ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール 著『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』

2011-03-27 06:48:27 | 
 『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』というタイトルの対談本が刊行された(阪急コミュニケーションズ)。仏語版原書では「本から離れようたってそうはうまくいかない」というほどの意味のタイトルで出版されたそうだが、本書は、KindleやiPadなど台頭著しい電子書籍リーダーに背を向け、「とにかく紙の書物がいいのだ」などという、聞き飽きた主張を又ぞろ高らかに宣誓するための本なのだろうか。
 イタリアの記号学者・作家ウンベルト・エーコと、フランスの脚本家ジャン=クロード・カリエールによる、450ページ超におよぶすばらしい長時間対談。日本語版ではネームバリューを考慮したのか、エーコが先に表記されている。原書では、年功序列なのか姓のアルファベット順なのか分からないが、1才年上のカリエールの名前が先になっているようである(そんなこと、どうでもいいか)。

 じつを言うと、本書は「看板に偽りあり」という点がおもしろいのだ。たしかに一応は、紙の書物から発せられる離れがたい誘惑のことが語られ、電子による耐久メディアがいかに脆弱で移ろいやすいものであるかが、本書序盤で主張されてはいる。つまり、フロッピーディスクやMO、ZIPといったメディアに保存したまま、(ドライヴ機の衰退、絶滅によって)読み出し不能となったデータやドキュメントを、どなたもが多少の差こそあれ、空しくデスクの引き出しに保管しておられないだろうか。2人の論客は、そのことを強調している。いずれDVDを再生できなくなる日だって遠くはないだろう、ともエーコは述べている。
 ところがそんな話題(宿題?)は、本書の序盤でササッと取り沙汰されて、片付けてしまう。あとは稀覯書、古文書、奇書、愚書といった、2人共通の大好きな話題でひたすら盛り上がっているのだ。爽快なほど「看板に偽りあり」である。
 先日の東日本大震災では、尊い人命はもちろんのことながら、どれほど多くの芸術作品、一点物の品、貴重な書籍・文献といったものも被災し、永遠に私たち人間の瞳から奪われてしまったのか、今はまだそのおそるべき被害の全貌は、まったく明らかとなっていない。たとえば、岡倉天心ゆかりの六角堂は、海の藻屑と消えたそうである。そうした喪失に思いを馳せつつ、思考を強靱に続行させるためのエンジンに、本書はなってくれるのではないかと思う。


P.S.
 近年ではミロス・フォアマンの『宮廷画家ゴヤは見た』の共同シナリオで力を見せたジャン=クロード・カリエールだが、公開中のアッバス・キアロスタミの最新作『トスカーナの贋作』では俳優として出演し、そこそこいい味を出している。

アポカリプスと共に

2011-03-24 01:33:04 | 
 3月15日付の仏リベラシオン紙HPに、《日本人は、アポカリプス(黙示録)と共に生きてきた人民である》というインタビュー記事が掲載されている。ジャン=フランソワ・サブレ、ジャン=マリー・ブイスという2人の識者が分析を試み、『日本: 黙示録的アニメ』と称して、カタストロフの描写に心血を注いだ日本製アニメの再編集映像もアップされている。
 『太陽の黙示録』『日本沈没』『はだしのゲン』『アキラ』『風の谷のナウシカ』『ドラゴンヘッド』『最終兵器彼女』などといった諸ジャンルの代表作が言及されたのち、議論は葛飾北斎『富嶽三十六景』の中の「神奈川沖浪裏」(1831 左写真)にまで遡行する。むろん北斎による風景版画のダイナミックな傑作であるが、この高波の描写を黙示録的に眺めるというのは想像だにしなかった。そもそもこれは津波の絵ではないだろう。とにかくこうした趣旨は、さして新味に富んだものとは言えないかもしれないが、渦中ということでもあり、興味深かった。

 日本列島は太古より天変地異に晒され続けてきたため、ここに住む人間たちは、文明のリセットが骨の髄まで意識化されている、というたぐいの解釈が、国内外でさかんになされている。これに対しここ数日、タフな論者たちが主張している。カタストロフを宿命的に考えてしまうのは、過剰に安直ではないかと。いま、日本人はあまりにも冷静沈着に宿命を甘受しすぎていると。
 しかしながら私の意見は、結果的にはこれの正反対で、私たちは冷静沈着なわけではなく、茫然自失と緊張の均衡を単に図っただけであるし、今回の震災うんぬんではなく、終末はどっちみち来るだろう。物語に終わりがあるように、歴史には世界には、必ず終わりが来るのだ。これはやはりどうしようもない「宿命」であるし、嘆いてみてもしかたがない。だから、私たちは私たちの生を生きるのみである。


リベラシオン紙の該当記事《日本人は、アポカリプスと共に生きてきた人民である》
http://www.liberation.fr/

バレンシアのユニフォームが日本語に

2011-03-21 23:19:40 | サッカー
 リーガからの激励メッセージ第3弾です。ちょっとしつこいけれどお許しを。
 19日から20日にかけて、リーガ・エスパニョーラ第29節がおこなわれました。先週に引き続き、今節も各会場で東日本大震災の犠牲者に対する黙祷が捧げられました。2週にわたってしつこく黙祷がおこなわれた理由は、ホーム&アウェーの全スタジアムで挙行しようという意図でしょう。これほどの徹底は、リーガではあきらかに異例のことです。

 特筆すべきはバレンシアです。激励の衷心を表すため、控え選手もふくめ、全選手のユニフォームのノンブレが日本語表記(カタカナ)だったのです。こうした好意に対して、単なる人気取りであるとか、あるいはスペイン人特有のパシオン(激しやすい感情)のためであるとか看破するのはたやすいことです。
 しかし私は以前、バレンシアのクラブ・スタッフと話し合いを持ったことがあるのですが、彼らは自分たちが日本で、バルサ、レアル・マドリーについで3番目に人気を得ていることを自覚しており、また長年にわたりトヨタ自動車が胸スポンサーになってくれたことに多大な感謝の念を抱いている、と言っていました。「われわれは日本からもらった大きな愛に対して、今後どのように応えていくべきかをいつも考えている」とも述べていました。そうした衷心が、今回の奇抜なアイディアとなって顕れたのではないでしょうか。このニュースが、早く被災地域にお住まいのリーガ・ファンのもとに届かんことを。


Marca紙の該当記事《バレンシア、カタストロフに遭った日本にシャツでオマージュを捧げる》
http://www.marca.com/

地震でもないのに揺れてる

2011-03-18 09:50:54 | 身辺雑記
 最近はしょっちゅう揺れている。実際、関東地方には余震が来ることもたびたびあるが、どうもそれだけではない。座って何かを読んでいる時、あるいは着席した瞬間や起立した瞬間に、グラグラ、グラグラと来る。貧血の時のめまいや、酒酔いとはまったく異なり、完全に「地震が起きた」のと同じ感覚なのだ。「あ、来た」などと声を発して、周りの者に「え、来てます?」などと反応されてしまう始末だ。周囲の人でこの〈常時地震酔い〉を訴える人はことのほか多い。しかしこの症状を、国家的非常事態ゆえ放置しているのだ。「いまは、放射能の問題が最優先だ」ということなのだろう。
 地震の後遺症というか、三半規管か自律神経をすこしやられたかもしれない、とも思ったが、まさにそのことが、きょうのasahi.comに掲載されている。もうすこし様子を見よう。


『地震でもないのに揺れてる…「地震酔い」 リラックスを』
http://www.asahi.com/national/update/0317/TKY201103170099.html