荻野洋一 映画等覚書ブログ

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横内仁司 著『ドッグ・タッグ(認識票)』

2007-10-31 14:13:00 | 
 著者の古い友人だという知り合いから本書を手渡され、縁あって読むこととなった。ベトナム戦争の元アメリカ軍志願兵、横内仁司の手になる従軍手記『ドッグ・タッグ(認識票)』(1980 角川書店刊・絶版)というものだが、これは世紀の、隠れたる奇書であると言っていい。なにしろ、この本の著者自身が自問自答しつつも明快な回答を見いだせないように、なぜ著者がベトナムに参戦してしまったのか、ということ自体があまりにも大きな謎として、全ページにべったりと横たわっているのである。

 たしかに著者・横内仁司は大阪の厳格な商家に生まれながらも、冒険癖、熱中体質、孤独癖といったものに駆られてしまう自己の思春期を、本書の序盤で省みてはいる。パキスタンへの留学、カシミール紛争との遭遇、イラク等への中東無銭旅行、LAでのゲットー暮らしなど、田舎や未開地への〈プチ失踪〉を媒介にした〈自分捜し〉運動にも似た行動形態は、本書の著者が言うところの「平凡な日常の惰性」なるものに飽き足りない現代人にも、けっこう通じやすいかもしれない。しかし…


“志願して今、東南アジアの戦場に向かっていることも、思えば青春の燃焼を求めるための、私の衝動的な行動だったかも知れない。(中略)衝動的に動く自分を後悔するより、どうしようもない私自身の〈業〉が、どこまでも私の進む道を支配している。たとえこれから赴く戦場で、死が私を待ち受けていても仕方がない。そう自虐的に自分を納得させるしかないのだ”(本書8頁より)


 “思えば青春の燃焼” だって!? だからといって、何の義理もないアメリカ軍に志願して、あまつさえベトナム戦争で一兵卒となり果てるとは、常軌を逸した行動…、いや愚行だと言っても過言ではなかろう。著者の戦場描写はあまりにも臨場感に満ち、灼けつくような死への恐怖と極限状態が、読み手であるこちらの息も詰まるほど赤裸々に綴られている。また、南ベトナム正規軍がVC(ベトコン)村の女たちを拷問する光景を、アメリカ軍の小隊がなすすべもなく見学せざるを得ない凄惨な場面など、反戦意識に通じる描写も散見されるし、さらに、戦場であげた軍功も勲章も昇進も、娑婆では何の意味もないものだった、と醒めた述懐さえしている。

 20世紀は、戦記文学が鋭い輝きを放った時代だ。その中には、対独レジスタンスや、スペイン内戦、アルジェリア戦争への従軍経験や、義勇兵参加経験が生み出した傑作が数多く含まれている。今さらながら挙げるなら、ヘミングウェイのあの素晴らしすぎる『誰がために鐘は鳴る』や、クロード・シモンの『フランドルへの道』、さらに系統は異なるが島尾敏雄の『魚雷艇学生』などがそのいい例だろう。そこで最終的な問いが、読み手である僕の中に浮かんでくる。無意識であるにせよ(彼はイデオロギーには興味がないとはっきり書いている)、彼が選んだのは、なぜ米軍だったのか? なぜベトコン(南越解放民族戦線)ではなかったのか?

 本書は最後、著者が地雷に吹き飛ばされ、地雷の破片がこめかみから入って目玉を吹き飛ばし、右足膝下骨折、左足切断、右肩損傷、左手人差し指喪失など重傷を負って病院内で退役するところで終わっている。見舞いに訪れた両親との4年ぶりの再会場面は、「感動」というより「生き地獄」に近い。嗚咽を繰り返した母親がやっとのことでつぶやく「どうして…」の一言がすさまじい響きとなって、最後の最後で本書を圧してしまった。この「どうして…」が本書の終盤に現れた時、やっと人間的な言葉に出会ったとほっとした。

 おそろしい本を読んでしまったものだ。迫力、そして恐怖の描写という点では、凡百のベトナム戦争映画などとは比べものにならない。本書を貸してくれた方も、横内仁司とはかれこれ10年は連絡を取っていないという。一人の「Veteran」として、今ごろどのような後半生を送っているのだろうか。

フアンデ、突然セビージャを去る

2007-10-30 08:20:00 | サッカー
 フアンデ・ラモスが突如としてセビージャFC監督の座を放り出し、イングランドのトッテナム・ホットスパーの監督に電撃就任した。フアンデの力量に対する評価は、以前からスペイン国外でも高まりを見せており、チェルシーのモウリーニョが解任された際にも、その有力な後任候補に名が挙がったりしていたのは事実だ。

 古豪スパーズを復活基調に乗せた功労者マルティン・ヨル前監督の力量に限界を感じるやいなやヨルを更迭し、スペインの地方クラブばかり渡り歩いてきた男を、なんと驚くなかれ、年俸700万ユーロ、4年契約で迎え入れた、その大胆な運営は、バブルに沸くプレミアシップの金銭感覚の一端を示していて、ビックリ仰天である(700万ユーロ=約11億6千万円)。大丈夫か、フアンデ?

 しかしである。生き馬の目を抜くかの如き現代欧州サッカー界のことゆえ、ドライな感覚で事態を眺めるべきなのかというと、それは違うだろう。僕としては、少なくともプエルタの一周忌が済むまでは、こういうことをしてほしくなかった。忘れてはなるまい、彼はサンチェス・ピスフアンのピッチの上で斃れたのだ。53億円もの移籍金をちらつかされチェルシー移籍であれほど大騒ぎしていたチームメイトのダニエウ・アウヴェスでさえ、プエルタ死去以後は静かにキャプテンを務めている(まあウィンターブレイクまでのことだろうが)。ましてや、指導者であるフアンデが保つべき倫理はもう、なにをか言わんやである。この批判は日本的だと反論されるかもしれないが、スペインにも喪中、喪が明けるという言葉はちゃんとある。

 とはいえ、仕方がないのかもしれない。年俸11億6千万円は、現在の年俸の10倍だそうだ。誰だって断ることの難しい金額であるし、そんな破格なオファーは二度と来ないだろう。また実は、当のセビージャにもこのところ、いろいろな出来事がありすぎた。初出場のチャンピオンズリーグと国内リーガを粛々と戦っていかなければならない時期なのに、うまく事が運んでいない(CLはアーセナルに次いでグループHで2位につけているが、リーガは10位に甘んじている)。世間では、波に乗りきれない理由が、悲しい事件の余韻のためと隠蔽され、あまり批判されることもなく看過されているが、フアンデ本人は薄々このチームを他の者に託す時が来たと感じていたのかもしれない。

 ともあれ、カリスマ的指導者が去り、下部組織の指導に当たっていた若きマノーロ・ヒメーネスが昇格した初戦となった第9節は、強豪バレンシアをホームで3-0で粉砕し、皮肉なことだが、内容面・戦術面でも今シーズン1番の出来を見せた。
 セビージャにもスパーズにも、新たな時代が良いものであることを祈る。

『カリフォルニア・ドリーミン(endless)』 クリスチャン・ネメスク

2007-10-28 23:45:00 | 映画
 東京国際映画祭の新設部門「ワールド・シネマ」内で上映された、ルーマニアの新人クリスチャン・ネメスク監督のデビュー作にして遺作『カリフォルニア・ドリーミン(endless)』は、期待通り傑作だったらしい。仕事の都合で2度の上映機会に行くことができなかったが、友人Hから「TIFFの新作で傑作を見たのはいつ以来か?」という賞讃の電子メールが届いた。以下、その電子メールからの抜粋。


“停電が置き、一晩を過ごしたカップルがテラスで朝を迎えるロングショットや、街に遊びに行ったカップル(この村と街の位置的関係が分からないのだが)が、バスに乗って帰ってくる、このバスを横移動で捕らえたナイターのショットなんて、素晴らしい叙情が冴えわたる(ムルナウみたいだ)。混沌を描きつつ、ここぞというところでは、実に的確なカットが炸裂するのだ。ラストの2004年のブカレストは数分のシークエンスだが、ここも「ヌーヴェルヴァーグ」と呟くしかないレアリスムの美しさに溢れる。”
“編集が未完成なのは惜しいが、非常に優れた作品であるし、あと何本か撮っていけば、軽くクストリッツァぐらいには到達した才能に思える。ネメスクの死は同時代的な世界映画にとっては痛恨の出来事のように思える。何でも、録音技師と乗っていたタクシーが、120キロ超のスピードで英国人が運転していたポルシェに追突されたということで、ルーマニア人にとっても非常に傷ましい出来事だったようである。”


 またいつか、この作品を見る機会に恵まれるだろうか?

2本の台湾映画(@東京国際映画祭)

2007-10-27 16:38:00 | 映画
 東京国際映画祭、結局見に行くことができたのは、「エドワード・ヤン(楊徳昌)監督追悼特集」の『青梅竹馬(タイペイ・ストーリー)』(1985)と、「アジアの風」部門の林靖傑(リン・チンチェ)監督『遠い道のり』(2007)の2回のみ。会期はまだ今日、明日とあるが、仕事があり無理だ。偶さか新旧の台湾映画2本のみとなったが、この選択にはスケジュール的な理由以外にこれといった理由はない。

 しかし物事には、ある種の必然というものもあるわけで、20余年の時空を跨ぎ、『タイペイ・ストーリー』と『遠い道のり』は、奇しくも同じ種類の人々のことが語られているのだ。簡単に言えば、過密化し、経済競争の激化した首都・台北での生活に対し、ストレスが臨界点まで達してしまった人々である。

 『タイペイ・ストーリー』の冒頭近く、建築デザイン会社に勤めるヒロインと彼女が慕う上司が、自社ビルの窓から台北の街を見下ろして吐く、「自分が手がけた建物がいくつもあるはずなのに、そこに存在しているかどうかもわからない。どれも同じ物に見える。」という台詞は、今なお胸にぐっと迫るものがある。

 ところが、20年後に同じ種類の人々を語る『遠い道のり』では、自分を取り巻く世界との和解が、田舎のリズム、自然の神秘、素朴な先住民との触れあいの中で試みられようとしているのだ。『おもいでぽろぽろ』とか『阿弥陀堂だより』とか『深呼吸の必要』とか、ここ10年くらいの日本映画の有象無象で描かれ、現在その総仕上げを中田英寿が派手に実践している、田舎や未開地への〈プチ失踪〉を媒介にした〈自分捜し〉運動である。

 だが『遠い道のり』を世界との安易なる和解を図る不誠実で退屈な作品と非難することをためらうのは、やはりこの作品に登場する三人の失踪者がそれぞれ、たけし映画のごとく、名前の剥奪された路上の〈単にいる人〉に変貌する、その一歩手前までに達しようとしているかに見えるためである。


P.S.
『青梅竹馬』の邦題を『タイペイ・ストーリー』とするのは、個人的に抵抗がある。Taipei Storyはあくまで英題であり、僕が初めてこの作品を見た当時は(つまり日本で初めて紹介された当時は)、『幼なじみ』という邦題であった。だから自分としては『幼なじみ』または原題の『青梅竹馬』を使用したいと思う。

第20回東京国際映画祭

2007-10-21 12:53:00 | 映画
 東京国際映画祭には何だかんだ言って10年近くご無沙汰ではないだろうか。昨日から開幕ということだが、今年こそ何本か見に行ってこようと思う。といってもせいぜい3~4本程度が物理的な限界だが。

 やはり注目の部門は、「アジアの風」「エドワード・ヤン(楊徳昌)監督追悼特集」、そして今年から新設の「ワールド・シネマ」となるであろう。しかし、コンペ部門に入っているジェローム・ボネルの新作『誰かを待ちながら』も都合で見に行けないだろうし、「ワールド・シネマ」に入っているもので気になるのが、現在映画シーンで注目を浴びているルーマニア映画界から、夭折の才人クリスチャン・ネメスクの処女作にして遺作となった『カリフォルニア・ドリーミン(endless)』であり(この新人監督は仕上げ中に急死した)、これは今年のカンヌの「ある視点」部門で作品賞を受賞した作品。残念ながらこれも見に行けない。