![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/52/bbf3a0d00e06d09c91532111f017d69d.jpg)
たしかに著者・横内仁司は大阪の厳格な商家に生まれながらも、冒険癖、熱中体質、孤独癖といったものに駆られてしまう自己の思春期を、本書の序盤で省みてはいる。パキスタンへの留学、カシミール紛争との遭遇、イラク等への中東無銭旅行、LAでのゲットー暮らしなど、田舎や未開地への〈プチ失踪〉を媒介にした〈自分捜し〉運動にも似た行動形態は、本書の著者が言うところの「平凡な日常の惰性」なるものに飽き足りない現代人にも、けっこう通じやすいかもしれない。しかし…
“志願して今、東南アジアの戦場に向かっていることも、思えば青春の燃焼を求めるための、私の衝動的な行動だったかも知れない。(中略)衝動的に動く自分を後悔するより、どうしようもない私自身の〈業〉が、どこまでも私の進む道を支配している。たとえこれから赴く戦場で、死が私を待ち受けていても仕方がない。そう自虐的に自分を納得させるしかないのだ”(本書8頁より)
“思えば青春の燃焼” だって!? だからといって、何の義理もないアメリカ軍に志願して、あまつさえベトナム戦争で一兵卒となり果てるとは、常軌を逸した行動…、いや愚行だと言っても過言ではなかろう。著者の戦場描写はあまりにも臨場感に満ち、灼けつくような死への恐怖と極限状態が、読み手であるこちらの息も詰まるほど赤裸々に綴られている。また、南ベトナム正規軍がVC(ベトコン)村の女たちを拷問する光景を、アメリカ軍の小隊がなすすべもなく見学せざるを得ない凄惨な場面など、反戦意識に通じる描写も散見されるし、さらに、戦場であげた軍功も勲章も昇進も、娑婆では何の意味もないものだった、と醒めた述懐さえしている。
20世紀は、戦記文学が鋭い輝きを放った時代だ。その中には、対独レジスタンスや、スペイン内戦、アルジェリア戦争への従軍経験や、義勇兵参加経験が生み出した傑作が数多く含まれている。今さらながら挙げるなら、ヘミングウェイのあの素晴らしすぎる『誰がために鐘は鳴る』や、クロード・シモンの『フランドルへの道』、さらに系統は異なるが島尾敏雄の『魚雷艇学生』などがそのいい例だろう。そこで最終的な問いが、読み手である僕の中に浮かんでくる。無意識であるにせよ(彼はイデオロギーには興味がないとはっきり書いている)、彼が選んだのは、なぜ米軍だったのか? なぜベトコン(南越解放民族戦線)ではなかったのか?
本書は最後、著者が地雷に吹き飛ばされ、地雷の破片がこめかみから入って目玉を吹き飛ばし、右足膝下骨折、左足切断、右肩損傷、左手人差し指喪失など重傷を負って病院内で退役するところで終わっている。見舞いに訪れた両親との4年ぶりの再会場面は、「感動」というより「生き地獄」に近い。嗚咽を繰り返した母親がやっとのことでつぶやく「どうして…」の一言がすさまじい響きとなって、最後の最後で本書を圧してしまった。この「どうして…」が本書の終盤に現れた時、やっと人間的な言葉に出会ったとほっとした。
おそろしい本を読んでしまったものだ。迫力、そして恐怖の描写という点では、凡百のベトナム戦争映画などとは比べものにならない。本書を貸してくれた方も、横内仁司とはかれこれ10年は連絡を取っていないという。一人の「Veteran」として、今ごろどのような後半生を送っているのだろうか。