季刊「リュミエール」誌が生んだ映画評論家の故・石原郁子さんとは、1994年に中野武蔵野ホール(現在は閉館)で公開予定だった拙作16mm短編の試写に足を運んでいただき、好意的な感想をもらったといういい思い出がある。若くしてガンを発症し、日韓ワールドカップ直前の2002年5月、小さい子を残して世を去っているが、死の3年前に出した『異才の人 木下惠介──弱い男たちの美しさを中心に』(パンドラ刊)は、じつに素晴らしい本だった。そしてその表紙には、若き日の津川雅彦、小坂一也、石浜朗、山本豊三、川津祐介の5人の青年が会津の荒野で木刀を握りしめて立ち、レンズを見据えている写真が使われていた。
これは『惜春鳥』(1959)からのスチールである。『惜春鳥』は、当時は黒澤明と並ぶ巨匠と目されていた木下惠介が、ゲイとしての自分をもっとも直接的に表出させることのできた作品である。会社側は、若い男児の青春群像をつうじてアイドル映画を生産しようとしたのだろうが、松竹にはそうしたジャンルを支えうるパンチのあるタレントが不足していることが如実にわかってしまう。しかし木下はそれを逆手にとって(逆手にとるのは、この映画作家の十八番である)、奇妙になまめかしい男同士の「スキンシップ」を、カラーフィルムでかなり好き勝手に撮っている。
前年の1958年、日本映画界は史上最高の観客動員数を記録し、活況に湧いていたことがよく知られている。気のせいかもしれないが、そのわずか1年後の公開作である『惜春鳥』にはすでに、どこか衰退の予感というか、いや予感以上の、ある倦怠のようなものが纏わり付いている。多面的な作品世界を誇って映画界を颯爽とリードしてきた木下惠介の活動に、枯渇と停滞がやってくるのは1960年代中盤であるものの、すでに『惜春鳥』には仇花的要素が存在すると思う。ラスト近くの、足の不自由な山本豊三が会津若松の商店街を駆け抜けるのを横移動でとらえるエモーショナルなシーンは、何度見ても鳥肌が立つが、これは仇花のなせる業なのか。
神保町シアターで開催中の《川本三郎編 東北映画紀行》という特集上映のなかに、会津若松の東山温泉をロケ地とした本作が選ばれている。12(土)、14(月)、15(火)、17(木)と立て続けに4度上映される模様だ。見ておいたほうがいい作品だと思う。
これは『惜春鳥』(1959)からのスチールである。『惜春鳥』は、当時は黒澤明と並ぶ巨匠と目されていた木下惠介が、ゲイとしての自分をもっとも直接的に表出させることのできた作品である。会社側は、若い男児の青春群像をつうじてアイドル映画を生産しようとしたのだろうが、松竹にはそうしたジャンルを支えうるパンチのあるタレントが不足していることが如実にわかってしまう。しかし木下はそれを逆手にとって(逆手にとるのは、この映画作家の十八番である)、奇妙になまめかしい男同士の「スキンシップ」を、カラーフィルムでかなり好き勝手に撮っている。
前年の1958年、日本映画界は史上最高の観客動員数を記録し、活況に湧いていたことがよく知られている。気のせいかもしれないが、そのわずか1年後の公開作である『惜春鳥』にはすでに、どこか衰退の予感というか、いや予感以上の、ある倦怠のようなものが纏わり付いている。多面的な作品世界を誇って映画界を颯爽とリードしてきた木下惠介の活動に、枯渇と停滞がやってくるのは1960年代中盤であるものの、すでに『惜春鳥』には仇花的要素が存在すると思う。ラスト近くの、足の不自由な山本豊三が会津若松の商店街を駆け抜けるのを横移動でとらえるエモーショナルなシーンは、何度見ても鳥肌が立つが、これは仇花のなせる業なのか。
神保町シアターで開催中の《川本三郎編 東北映画紀行》という特集上映のなかに、会津若松の東山温泉をロケ地とした本作が選ばれている。12(土)、14(月)、15(火)、17(木)と立て続けに4度上映される模様だ。見ておいたほうがいい作品だと思う。
昨年、鎌倉に立ち寄った時小津安二郎のお墓をお参りしようとふと思い立って円覚寺に行ったのですが、たまたま付近にいた人に向かいが木下惠介のお墓と教えてもらって驚いたものでした。木下のお墓は小津のそれに比べれば何の変哲もない和墓でしたが、墓前に供えられている真っ赤な薔薇の花がかなり強烈に印象に残っています。
石原郁子さんがとうに亡くなられていたのを知って、少しショックでした。リュミエール時代の石原さんの文章に憧れていましたが、その後のご活躍と消息のことはまったく知りませんでした。私事で失礼しました。
ブログの記事を拝読しました。老婦人の告げる「差し出がましいようですが」の一言にやられました。いやあすばらしい。
今後ともよろしくお願い致します。