田坂具隆の『はだかっ子』(1961)は、「感涙必至」の解説文どおり、じつに切ない児童映画で、サイレント期から日活を支えたこの巨匠監督によって、繊細きわまりない心配りと力感溢れる演出がみごとに両立しているさまに、改めて恐れ入った。「きれいごと」を忌み嫌うばかりのワルぶった輩には、ここで1カットごとに重ねられてゆく真の「きれいごと」の厳しさを、理解することはできないだろう。田坂は山田洋次ではない。
舞台は、1950年代後半の埼玉県所沢市。ベッドタウンとして爆発的に人口増加する直前の、いまだ農村であり、米軍の接収基地でもある地形が、丹念にカメラに収められる。主人公の少年少女たちは、狭山茶の茶畑の稜線に沿ってかけずり回る。顔に土をつけた彼らの上空には、断続的に米軍機の爆音が通過する。
ユネスコ村や西武園競輪は大々的にフィーチャーされるが、ライオンズ球場はもちろん登場しない。堤義明がクラウンライター球団を博多から巻き上げるのは、ずっと後のこと。余談だが、私はここで野球を観戦したことはないけれど、高校時代にクイーンの来日コンサートを見に行ったことがある。狭山丘陵にあるため、ずいぶんと底冷えのするスタジアムだという印象があり、ブライアン・メイの超絶的ギターソロもいくぶん悴み気味であった。かつてこの球場でTBSラジオ『ライオンズ・ナイター』の中継を担当し、現在は私の仕事仲間となっている某アナウンサー氏も、「あそこはトイレが近くなって困る」と言っていた。
本作は、「第二東映」のラインがわずか1年で業績悪化し、命名変更した「ニュー東映」の製作配給作品である。スタジオ・システム崩壊初期のたいへん苦しい時代であるにもかかわらず、『はだかっ子』に引き続き、『ちいさこべ』『五番町夕霧楼』『冷飯とおさんとちゃん』『湖の琴』と、田坂具隆は、本拠地でない東映で最後の輝きを見せた(1964年の『鮫』は未見)。田坂が、裕次郎人気の渦中に『乳母車』(1956)や『陽のあたる坂道』(1958)を本拠地の日活で意気軒昂に連発していた時代から、厳しい条件下で『はだかっ子』を撮らねばならなくなるまでに、わずか3年しか時が流れていない。
東京・神田の神保町シアター《昭和の子どもたち》特集内で上映
http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/
舞台は、1950年代後半の埼玉県所沢市。ベッドタウンとして爆発的に人口増加する直前の、いまだ農村であり、米軍の接収基地でもある地形が、丹念にカメラに収められる。主人公の少年少女たちは、狭山茶の茶畑の稜線に沿ってかけずり回る。顔に土をつけた彼らの上空には、断続的に米軍機の爆音が通過する。
ユネスコ村や西武園競輪は大々的にフィーチャーされるが、ライオンズ球場はもちろん登場しない。堤義明がクラウンライター球団を博多から巻き上げるのは、ずっと後のこと。余談だが、私はここで野球を観戦したことはないけれど、高校時代にクイーンの来日コンサートを見に行ったことがある。狭山丘陵にあるため、ずいぶんと底冷えのするスタジアムだという印象があり、ブライアン・メイの超絶的ギターソロもいくぶん悴み気味であった。かつてこの球場でTBSラジオ『ライオンズ・ナイター』の中継を担当し、現在は私の仕事仲間となっている某アナウンサー氏も、「あそこはトイレが近くなって困る」と言っていた。
本作は、「第二東映」のラインがわずか1年で業績悪化し、命名変更した「ニュー東映」の製作配給作品である。スタジオ・システム崩壊初期のたいへん苦しい時代であるにもかかわらず、『はだかっ子』に引き続き、『ちいさこべ』『五番町夕霧楼』『冷飯とおさんとちゃん』『湖の琴』と、田坂具隆は、本拠地でない東映で最後の輝きを見せた(1964年の『鮫』は未見)。田坂が、裕次郎人気の渦中に『乳母車』(1956)や『陽のあたる坂道』(1958)を本拠地の日活で意気軒昂に連発していた時代から、厳しい条件下で『はだかっ子』を撮らねばならなくなるまでに、わずか3年しか時が流れていない。
東京・神田の神保町シアター《昭和の子どもたち》特集内で上映
http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/