荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『はだかっ子』 田坂具隆

2010-07-31 00:00:08 | 映画
 田坂具隆の『はだかっ子』(1961)は、「感涙必至」の解説文どおり、じつに切ない児童映画で、サイレント期から日活を支えたこの巨匠監督によって、繊細きわまりない心配りと力感溢れる演出がみごとに両立しているさまに、改めて恐れ入った。「きれいごと」を忌み嫌うばかりのワルぶった輩には、ここで1カットごとに重ねられてゆく真の「きれいごと」の厳しさを、理解することはできないだろう。田坂は山田洋次ではない。

 舞台は、1950年代後半の埼玉県所沢市。ベッドタウンとして爆発的に人口増加する直前の、いまだ農村であり、米軍の接収基地でもある地形が、丹念にカメラに収められる。主人公の少年少女たちは、狭山茶の茶畑の稜線に沿ってかけずり回る。顔に土をつけた彼らの上空には、断続的に米軍機の爆音が通過する。
 ユネスコ村や西武園競輪は大々的にフィーチャーされるが、ライオンズ球場はもちろん登場しない。堤義明がクラウンライター球団を博多から巻き上げるのは、ずっと後のこと。余談だが、私はここで野球を観戦したことはないけれど、高校時代にクイーンの来日コンサートを見に行ったことがある。狭山丘陵にあるため、ずいぶんと底冷えのするスタジアムだという印象があり、ブライアン・メイの超絶的ギターソロもいくぶん悴み気味であった。かつてこの球場でTBSラジオ『ライオンズ・ナイター』の中継を担当し、現在は私の仕事仲間となっている某アナウンサー氏も、「あそこはトイレが近くなって困る」と言っていた。

 本作は、「第二東映」のラインがわずか1年で業績悪化し、命名変更した「ニュー東映」の製作配給作品である。スタジオ・システム崩壊初期のたいへん苦しい時代であるにもかかわらず、『はだかっ子』に引き続き、『ちいさこべ』『五番町夕霧楼』『冷飯とおさんとちゃん』『湖の琴』と、田坂具隆は、本拠地でない東映で最後の輝きを見せた(1964年の『鮫』は未見)。田坂が、裕次郎人気の渦中に『乳母車』(1956)や『陽のあたる坂道』(1958)を本拠地の日活で意気軒昂に連発していた時代から、厳しい条件下で『はだかっ子』を撮らねばならなくなるまでに、わずか3年しか時が流れていない。


東京・神田の神保町シアター《昭和の子どもたち》特集内で上映
http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/

『ブロンド少女は過激に美しく』 マノエル・デ・オリヴェイラ

2010-07-28 00:23:40 | 映画
 試写で見ることのできた、ポルトガルの名匠マノエル・デ・オリヴェイラの新作映画『ブロンド少女は過激に美しく』(2009)は、常軌を逸した美しさで妖しく輝いており、今年見た中では、アラン・レネの『風にそよぐ草』に匹敵する傑作であろう。
 「あの映画作家が新作を撮らなくなって、もう○年になる」だとか、「あの映画作家の作品は、もう○作連続で輸入公開されていない」だとか、そういう悲しむべき事態が国内外を問わずあまりにも多く、暗然とせざるを得ない毎日が続く。「たのむから、新作を撮ってくれ」と、声にならぬエールを、私たちは愛する映画作家たちにむなしく送るばかりである。しかしそれでも、2010年というこの時代を「映画暗黒時代」と名づけるのを思いとどまる理由は、わずかにひとつ。オリヴェイラの新作の日本公開が、嘘のようなスムースさで実現してしまったという、小さな僥倖によってでしかない。
 これに先立つ『コロンブス 永遠の海』(2007)が今年に入ってようやく公開されたばかりだというのに、私たちはだれ憚らず『ブロンド少女は過激に美しく』を見ることができてしまうのである。上映開始から終映まで、「珠玉」という言葉はこの作品のためにあるのではないか、と思わずにいられないシーンのつるべ打ちである。私たちの上にとんでもない天罰が下るのでは、という危惧を脇へよけて、まずは『ブロンド少女は過激に美しく』の過激な美しさに、酔いしれなければならない。何度もくり返しての鑑賞に耐える真の映画である。
 正直に白状するならば、わが憐れな主人公マカリオ(リカルド・トレバ オリヴェイラの孫)が狂恋の対象とするブロンド少女ルイザ(カタリナ・ヴァレンシュタイン)に、人生を犠牲にするほどの美貌が備わっているとは、私にはどうしても思えなかった。日本風に言えば、「小便臭さ」が残る小娘にすぎない。それを言うなら、後日に列車内で、ことの次第をマカリオから聞かされる隣席の貴婦人(この役を演じるレオノール・シルヴェイラも、今年40歳を迎えるらしい)、いわば、客席のわれわれと同じ立場にいる人物である彼女のほうが、端的に言ってはるかに美しい女性である。 
 しかし、マカリオの狂恋の跡を追っていくオリヴェイラの悪戯心が、すべての法則に勝っている。あの素晴らしい『クレーヴの奥方』(1999)におけるキアラ・マストロヤンニと同じように宿命的な悪戯心を宿しつつ、アパートの窓際で中国の扇子を片手に持つブロンド少女は、リスボンの夕景に妖しく輝いていた。そしてこれは、彼女の意志とはほとんど関係がないことがらなのである。


9月ごろより東京・日比谷のTOHOシネマズシャンテなど、各地で公開予定
http://www.bowjapan.com/(本作の公開情報は未掲載)

R・W・ファスビンダー作『ブレーメンの自由 ゲーシェ・ゴットフリート夫人、ある市民悲劇』

2010-07-26 01:51:55 | 演劇
 東京・六本木の俳優座5F稽古場で、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの戯曲『ブレーメンの自由 ゲーシェ・ゴットフリート夫人、ある市民悲劇』が上演された(訳・渋谷哲也 演出・堀越大史)。本作は、「アンチテアター」のために書かれた戯曲で、のちに作者自身の手でテレビドラマ化もされている(1972)。ちなみに、このドラマ版でヒロインのゲーシェ・ゴットフリート夫人を演じたのは、ファスビンダーの前作『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』(1972)でもヒロインのペトラ・フォン・カントを演じたマルギット・カーステンゼンであった。
 今回の出来を云々する前に、まずはこうしたものの上演を試みた人々を讃えるべきではないだろうか。現代日本の演劇シーンにおいて、ファスビンダーが上演されることは、まずありえない。ファスビンダー作品ほど、今日のわれわれの矮小なる生に対する辛辣な訴求力を有するものは珍しいというのに、(心ある映画ファンの間では、ファスビンダーを無視する人は、以前と違って現在はあまり見かけないけれども)「演劇人としてのファスビンダー」に光を当てる日本の演劇人がいないというのは、非常に嘆かわしい事態ではないか。川村毅がすこし前に、自作とファスビンダー作品との親近性を主張していたことはあったが、それも、メロドラマ構造の導入の積極性がどうのこうの、という程度の主張である。
 とはいえ、ジスワフ・スコヴロンスキを民藝が、R・W・ファスビンダーを俳優座LABOが、というふうに、ヨーロッパのレアなテレビドラマ戯曲から、興味深いお宝を見つけ出してくる目利きの演出家も、少しは存在しているようである。

 今回の上演では、都合の悪い人物を次々に毒殺してゆく狂気のヒロイン、ゲーシェ(荒木真有美)の好演が強い印象を残した一方、セット空間も秀逸であった。ドイツ北部ブレーメン市内にある中産階級用アパートの一室という、1セットのみ。ヴェーザー川の河畔に近いのだろうか、水鳥の鳴き声がセット外からうっすらと響き続ける。
 舞台正面奥に玄関があるが、扉は上下に開閉する自動ドアとなっている。この自動ドアは、そこを誰が、いつ通るかによって、微妙にスピードが変化する。時には、招かれざる客を追い出すかのように冷たく閉まり、時には、その客の死を予告するかのようにギロチンの速さで閉まる。
 アパートの壁には、水藻のような、いや動脈・静脈のような蔦模様が、天井にまで伸びている。閉塞感が強調されているが、ヒロインは時折、ひざまづいて奇妙な祈りを神に捧げる。その祈りは、ほとんど第1列の客席に吸収されんばかりの位置でうずくまってなされる。

告知 岡田武史独占インタビュー番組

2010-07-24 02:21:36 | サッカー
 サッカー日本代表監督の岡田武史さんを南の孤島に「拉致軟禁(?)」し、独占的にロングインタビューをおこなって構成した番組の編集作業を、ついさっき終えて、スタジオから帰宅したばかりです。あさって日曜日には音効作業をおこない、完成することになります。今回は、わたくし自身の演出作品ではありませんが、横から口出しをするイチャモン屋として関わらせてもらいました。

 南アから帰国後の岡田監督については、空港でのプレス・カンファレンスと地上波各局への通り一遍な会見で短くしゃべったくらいで、他には、皇室訪問や首相官邸、逗子市役所でのあいさつ程度の談話のみ。この人は、日本のマスメディアに対する不信の念がきわめて強い、というイメージを持たれている人です。
 手前味噌な話になりますが、他のメディアに対してとは比べものにならないくらいに、私たちのスタッフを信頼し、南の島で胸襟を開いてくれたのが、非常に有難かったし、その上で、苦悩、思考の流れ、ひらめき、そして、思いの丈を、めいっぱいにぶちまけてくれています。そしてそこにはまた、思う存分に趣味のスキューバ・ダイビングを愉しみ、民宿のテレビを見ながらイニエスタのウィニング・ゴールに若者のように快哉を叫ぶ、ひとりの男がいました。

 岡田監督を評価していない方々にも、ぜひ見ていただきたい番組です。


7月26日(月)よる10:00~ (再)7月31日(土)午前9:00~
WOWOW(BS 5chまたはデジタル191ch)
ノンフィクションW『岡田武史の挑戦 ~監督という職業~』

『悪徳』 ロバート・アルドリッチ

2010-07-21 00:39:38 | 映画
 前年の『キッスで殺せ!』に続く、ロバート・アルドリッチの長編6作目『悪徳』(原題= The Big Knife 1955)が、紀伊國屋レーベルからDVDリリースされたばかりである。本作の原作者であり、ニューヨークの左翼系劇作家であるクリフォード・オデッツにとって、ハリウッドでのシナリオ執筆生活が、いかに失望、屈辱、焦燥に満ちたものだったかはよく知られていて、そのあたりの事情は、上島春彦の大著『レッドパージ・ハリウッド』(2006 作品社刊)にも詳述されている。
 オデッツがハリウッドに愛想を尽かして書いたこの『悪徳』は、ドル箱スターやプロデューサーの不実な小心さや不道徳ぶりを、異常なほど単純明瞭、極端なまでにめった斬りにした業界内幕ものであるが、これがデフォルメなのかどうか、私には判断つきかねる。ただ、苦悩する主人公チャールズ・キャッスル役をジョン・ガーフィールドが演じたブロードウェイでの初演舞台(1949)は、書き手、演じ手双方の個人的怨念があらわとなって、さぞかし生々しいリアリティを宿したのではないかと想像できる(もし悲劇的な死がもっと遅ければ、この映画のチャールズ役も、ガーフィールド自身が演じたのかもしれない)。

 だが、アルドリッチ版で主人公を演じたジャック・パランスもじゅうぶんすぎるほどすごい。翌年の『攻撃』での、夢に見るほど恐ろしい死顔は、一度見たら忘れられないものであるが、この『悪徳』で彼は、冒頭からラストまでひたすら嬲られ、精神的責苦を受け続ける。
 アルドリッチは、「男性的な映画作家」とよく評されるし、北フランスのアミアン映画祭で1994年にアルドリッチ特集が組まれたとき、ゲストとして招待されたリチャード・ジャッケルが壇上でマイクを渡されて、開口一番「He was a MAN.」と単刀直入にアルドリッチを評したことも、私は覚えている。ジャッケルの挨拶の後に上映された『合衆国最後の日』(1977)は、まさにこの老優の言葉の正しさを証明してもいた。しかしいま、改めて思うのは、「男性的な映画作家なるものは、かくもマゾヒズムへと傾斜するものなのか」ということなのである。これが「フィフティーズ的な暗さ」というものでもあるだろうが、それにしても常軌を逸している。