荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『四季の愛欲』 中平康

2015-07-28 23:05:34 | 映画
 スカパーの録画で中平康の『四季の愛欲』(1958)を初見。

 連れ込み宿の前をひっきりなしに通り過ぎるダンプカーの車列など、カメラマン・デビュー直後の山崎善弘によるニヒリスティックな画面や、森英恵の衣裳デザインもさることながら、日活および民藝、俳優座の演技合戦が見どころだ。昨秋の神保町シアターの民藝特集では、本作はふくまれなかった。
 男好きな年増女の山田五十鈴。その子どもに安井昌二、桂木洋子、中原早苗の3人。日活のキャスト不足を補うために提携した民藝からは宇野重吉、細川ちか子、俳優座から渡辺美佐子、楠侑子、永井智雄らが固める。
 ことに私は、俳優座の永井智雄という人のファンである。新劇界の実力者だが、映画では主演作はない。増村保造『不敵な男』『うるさい妹たち』『でんきくらげ』をはじめとして、鈴木清順『密航0ライン』、山崎徳次郎『事件記者』、山本薩夫『松川事件』など、出演作は日活にとどまらない(掲載写真は代表作『事件記者』)。キャリアの最後のほうは局長とか総裁、大臣の役ばかり演っていたのは致し方あるまい。数年前に初めて見て感動した作品に、三隅研次の『女妖』(1960)がある。この『女妖』で永井智雄は文芸雑誌の編集長を演じ、小説家の船越英二がラストで失恋して落ち込んでいるところを、“まことの賢者は 砂上に城を築く いっさいはすべて空しいと知りながら…” とアンリ・ド・レニエの詩を暗唱して慰める。そのくぐもった声色にぐっとくるのだ。声も顔も、元投手の東尾修(西鉄 →太平洋クラブ →クラウンライター →西武ライオンズ)に似ている。
 アプレ妹の中原早苗、よろめき妻の桂木洋子、旅館女将の渡辺美佐子、森英恵の衣裳を着て生き生きと性悪女を演じる楠侑子(のちにこの人は、別役実夫人になって家庭に入ってしまった)など、女優陣が思う存分、爛(ただ)れた女を演じる。丹羽文雄が原作だから、爛れた内容になるのは当然だが、井上靖でも舟橋聖一でも林芙美子でも芝木好子でもいいが、私はこういう爛れた、女と男のドロドロして、すこし観念的に走ったりする1950~60年代の愛欲メロドラマが大好きである。中村登『土砂降り』(1957)や五所平之助『猟銃』(1961)、吉田喜重『秋津温泉』(1962)など、岡田茉莉子がこの分野の女王だと思う。若尾文子もすごいが、私は岡田茉莉子に軍配を上げる。
 しかしながらもっと強力なのが、山田五十鈴である。ドロドロした愛欲がこの『四季の愛欲』の中を通り過ぎていくが、最後をかっさらっていくのが、山田五十鈴と永井智雄の熟年カップルなのである。
 那須塩原駅のプラットフォームで、安井昌二を中心に、中原早苗、渡辺美佐子、峰品子の4人がいがみ合っているところに滑りこんでくる東北本線の車両。座席で、彼らの母親である山田五十鈴が、愛人の永井智雄と仲むつまじく肩を並べる姿が丸見えになる。どこかもっと遠方の温泉にしっぽりとしけ込む算段だろう。啞然として立ち尽くす子どもたち。東北本線の列車は、もっと北へむけて意気揚々と出発する。プラットフォームに立ち尽くした人々が、トラックバックでどんどん小さくなる。母の勝利で、この映画の愛欲ゲームは幕を下ろす。

『パージ』 ジェームズ・デモナコ

2015-07-26 20:35:09 | 映画
 マイケル・ベイの映画は信用できない。湯水のごとく予算を浪費するのに、作りがすこぶる雑である。去年の監督作『トランスフォーマー/ロストエイジ』もひどい出来だったが、今冬に公開されたプロデュース作『ミュータント・タートルズ』の鈍重さたるや、ラズベリー賞の常連になるのも無理からぬことである。その彼が低予算の近未来SFスリラーを手がけた。大金を無為に浪費する彼が、低予算だとどう出るのか。ひょっとすると、意外にも好結果を招くのかも知れない。
 本作『パージ』のプロデュースをマイケル・ベイと共同でつとめたのは、ジェイソン・ブラムである。『パラノーマル・アクティビティ』シリーズのプロデューサーであり、最近では賛否両論の音楽映画『セッション』のプロデュースもつとめた。マイケル・ベイとジェイソン・ブラムがタッグを組むと、どうなるのか。
 近未来のアメリカ社会は、犯罪多発と経済不況によって国家システムが破綻し、「新しいアメリカ建国の父たち」と名乗るファシズム団体が統治をおこなっている。そして国民への抑圧をガス抜きするために1年に一晩だけ、殺人をふくむあらゆる犯罪を合法化したとのことだ。その一夜だけは警察、消防、救急の全サービスが全停止する。
 ファシズム国家がガス抜きのためにバイオレンスの祭典を奨励するというプロットは、古くはポール・バーテルの『デス・レース2000年』(1975)、新しくは『ハンガー・ゲーム』(2012)あたりと同根の発想である。私が『ハンガー・ゲーム』を評価するのは、その白々しい諷刺と暴力、そしてフォークロア性による非対称がきわめてロジャー・コーマン的だからであり、とうぜんこの『パージ』にもコーマン的シニシズム、そしてその向こう側の射程にむけた獰猛な視線を期待する。
 しかし、答えは否。ピーター・S・トレイナー『メイク・アップ』(1977)やウェス・クレイヴン『壁の中に誰かがいる』(1991)、デヴィッド・フィンチャー『パニック・ルーム』(2002)の後続を狙った手ぬるい監禁スリラーであり、しかもスリルの演出がぶつ切りなのである。登場人物たちは都合が悪くなると、勝手に癇癪を起こして家のどこかへ消えて行ってしまう。登場人物の出し入れに有機的な連係がなく、殺人鬼たちの行動も精彩に乏しい。隣人たちがみな、主人公一家に殺意を抱いていたという後半の展開は悪くないのに、それが、諷刺としてもうひとつ効いていない。『パージ』とは、レッド・パージのパージである。この重大な用語をタイトルに使うなら、もっと鋭さを見せなければならない。引き続き上映される第2作も、もちろん見るつもりである。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)で7/31(金)まで
http://purge-movie.jp

鈴木伸子 著 福田紀子 絵 『わたしの東京風景』

2015-07-23 23:32:46 | 
 表紙の美しさに惹かれて本を買ったのはいつ以来か。モノクロームのパステルで曲がりくねった道、樹木が描かれている。その上に白の手書き明朝で書名と著者名が印刷されている。昭和的情緒のリバイバルだと言われてしまえばそれまでだが、いいものはいい。この表紙は田舎ではなく、東京の絵である。地方や郊外よりも、東京の中心部のほうがはるかに緑豊かだったりする。
 東京がいいなと思うのは、クルマがいらないことだ。地下鉄やバスといった公共交通機関を活用して安全に、時間どおりに、エコロジカルに移動することができる。小さい子どもをつれて行楽地に出かける人はクルマを使うだろうが、ひとりで都内を動く分には電車でじゅうぶんだ。クルマ社会の住民よりも読書量が圧倒的に増える。電車に乗っている時間を、私はスマホではなく、絶好の読書チャンスだと思っている。

 「『山の見えない街は落ち着きません』。京都からいらしたお茶の家元が、京都と東京の違いをおっしゃった言葉に、はっとした。京都は盆地である。街中からでも北、東、西に山が望める。東京では山など何処。そんなものは見えない。特に最近は超高層ビルが林立するので、視界は常にさえぎられる。」
 「一方で、東京にも山はある。愛宕山、道灌山、飛鳥山……。京都に比べて東京の街中の起伏は激しい。至るところに坂があり、その周囲よりも内側に変化のある地形を抱えているのが、この東京。」(本書14-15ページ)

 『わたしの東京風景』(港の人 四月と十月文庫)の著者・鈴木伸子は、東京・目白生まれの目白育ちとのこと。東京に向ける視線はどこまでもネガティヴィティを排除し、もはやそれは「慈愛の視線」と言っても過言ではない。花街や下町情緒、老舗の店構えなど、むかしの東京江戸が透けて見える箇所を絶讃するのは、最近の散歩本ブームの常套だが、著者は、超高層ビルやスカイツリーなどの無機質な現代建築、さらには荒涼として埃っぽい埋め立て地、首都高速道路にさえぎられて薄暗くなった高架下さえ肯定してはばからない。著者は永井荷風『日和下駄』を再読し、東京散歩の指南書と位置づける。この一本筋の通った身振りに共感した。
 私は、現在住んでいるところの近所にある箱崎ジャンクションの高架下を通るたびに見上げて、首都高が幾重にも折り重なる光景にグロテスクさを覚えてきた。まるで、のたうち回る大蛇たちの腹を下から見上げているかのごとくである。この異様さが印象深かったのか、ヴィム・ヴェンダースも『都市とモードとビデオノート』(1989)で箱崎ジャンクションを登場させていた。
 「初台や箱崎、池尻大橋などのジャンクションは、そのあまりの大きさゆえになぜか愛おしく思えてきた。日本橋浜町河岸から見る隅田川では、頭上を高速6号線が覆うが、やがてその巨大構築物は蛇行し、ゆるやかにうねりながら水上を渡っていく。江戸の頃には大川と呼ばれたこの案外に雄大な川を高速道路が横切っている風景には、『都市美』というべきものが感じられる。」(本書93-94ページ)
 こういうニヒリズムを介さぬ豪気な文言は、伊達な散歩者では書き得ない。『東京人』の編集者として、さらにライターとして鍛えられた取材の視線、そして長年の読書量に裏打ちされた知性のなせる業だろう。モノクロ印刷ながら大量に挟まれた福田紀子による荒々しい挿絵もじつにすばらしい。

『グローリー 明日への行進』 エヴァ・デュヴァネイ

2015-07-21 00:21:48 | 映画
 安保関連法案が強行採決された日、わが仕事の同僚が次のようなツイートを上げていた。曰く「我々がいくら声を上げようとも、彼(安倍晋三)にとっては鳥たちがピーチクパーチク言ってるようにしか聞こえていないんだろうよ。」
 はばかりながらこのツイートには腹が立ちました。こういう不用意にニヒリスティックな発言が、人々の行動を失速させることにしか役に立たないのは火を見るよりも明らかであって、国会議事堂前や全国各所の会場に集まったすべての人々は、自分たちの行動が直接的に何かに結びつかないなんてことは、とっくに分かっているのである。しかし、それをハナから否定したら、マーティン・ルーサー・キング牧師の存在も、パリ五月も、いやジョン・レノンもボブ・ディランもすべて否定することになる。ようするに絶望の深さにちゃんと対峙できるどうかだ(読んでくれてますか?)。

 『グローリー 明日への行進』は、1965年3月にアラバマ州セルマで起きた「血の日曜日事件」を題材としている。正直なところ、題材の冒険性を監督のエヴァ・デュヴァネイが黒人のアイデンティティに引き付けるのみに終わり、映画としての体でははなはだ弱いのが残念な点ではある。
 ただ、キング牧師を演じたデヴィッド・オイェロウォにとどまらず、脇役陣の好演が光っているのが本作の最も価値ある部分であろう。とりわけ、「永遠に差別を」と唱え、差別存続を支持する南部白人層を代表したアラバマ州知事ジョージ・ウォレス(1919-1998)を憎々しげに演じたティム・ロスがまことに出色で、このウォレスという極右系の人物を主人公に一本の作品があってもよいとさえ思える。初代FBI長官J・エドガー・フーバーの伝記映画が成立可能な時代なのだから(J・エドガーは本作にも少し登場します)。
 そして陰ながらきらりと光ったのが、差別撤廃と議会運営のあいだにはさまれて逡巡するジョンソン大統領(民主党選出/1908-1973)を静かにリベラルな方向へ軌道修正してやる大統領補佐官のリー・J・ホワイト(1923-2013)を演じたジョヴァンニ・リビシである。寡黙な彼が写るカットだけがこの映画で異質な底光りを放っていた。
 友人Hがメールをくれて、ウォレス州知事が晩年にみずからの人種隔離政策を全面謝罪した、本作がその点についても触れればもっと作品に深みが出たはず、と書いていたのだが、まったく同感である。大統領選挙で4度も敗れ、晩年は一族にも見放されたウォレスが、孤独に過ごす中で、かつて軽蔑した黒人たちが手をさしのべてくれたことへの返礼と悔悛だったそうである。


TOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷)では上映終了(各地MOについては調べられたし)
http://glory.gaga.ne.jp

鴨居玲 没後30年展《踊り候え》

2015-07-18 02:40:20 | アート
 東京駅構内の東京ステーションギャラリーで、鴨居玲(1928-1985)の没後30年展《踊り候え》が開催されている。ここ最近のステーションギャラリーは、前回の富山県立近代美術館蔵20世紀美術コレクション、今回の鴨居玲(金沢出身)、そして次回には九谷焼と、北陸関連のイベントが続いている。新幹線開通に合わせているわけだ。
 一作家の個展は多かれ少なかれモノグラフィー的なものとなるのは当然のことだが、今回の鴨居玲の場合、およそ100点の展示品を辿りながら、その苦悩と彷徨に満ちた彼の人生をまざまざと追体験した感がある。私たち観賞者は、作家の最期が苦悩の果ての自死であることを、あらかじめ知っている。主人公が自殺したところから始まる映画で、彼(彼女)がいかにそうなるのかを回想形式で語る映画があるが、あれと同じような体験を、絵を見ながら、ギャラリーの床を一歩一歩踏みしめながら辿るのである。
 十代に故郷で描かれた習作が館内入口に2、3枚あって、まずその技術の高さに驚きを覚える。しかし鴨居が画壇デビューを果たすのは、40歳を過ぎてからにすぎない。1971年(43歳)にスペインに移住し、プラド美術館でゴヤやベラスケスを模写する日々を送りつつ、ラ・マンチャ地方の農村バルデペーニャスで人生最良に日々を過ごす。村人との心からの交流を愉しみつつ、皺だらけの老婆や酔っ払いの男、傷痍軍人といったみすぼらしい人々の姿を、慈愛をこめて描きつづけている。ベラスケスそのものである。
 しかし、バルデペーニャスでの濃密な隣人交流にもうっとうしさを感じ始めた鴨居は、わずか10ヶ月で村を離れ、マドリー、トレド、そしてフランスのパリと転々と居を移し、1977年、結局は実家のつてを頼って神戸に戻ることになる。その後の作品は苦悩、枯渇、自殺衝動の色が濃い。帰国から5年後に描かれた大作『1982年 私』の痛ましさ──何も描かれていない真っ白なキャンバスの前に絵筆さえ持たずに腰かけて、呆然と私たち鑑賞者に視線を向けている作家の自画像。作家の周囲には、若き日々やヨーロッパ時代にくり返し描いてきた登場人物たち(皺だらけの老婆、酔っ払いの男、傷痍軍人など)が取り巻いて心配そうにしている。「もうあなたは描けないのですか?」彼らはそう問いかけているように見える。
 スペインの田園でのふくよかな創作生活を続けることはできなかったのか? 根っからデラシネ気質の作家にはそれができないというのも、分かりすぎるくらいに分かる。だから不憫であるし、57歳での自殺を「早すぎる死」と評するのはたやすい。いやむしろ、この回顧展を見ながら自然に出てきた見方を遠慮なく言わせてもらうなら、たびたび来る心臓発作に「ミスターX」などとあだ名をつけて、タナトスをもてあそぶ彼の自死は、大往生ではないにしろ、ひとつの生の全うだとさえ思えてしまうのである。


東京ステーションギャラリー(東京・丸の内)で7/20(月・祝)まで
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/