荻野洋一 映画等覚書ブログ

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ご挨拶

2015-12-31 20:00:59 | 記録・連絡・消息
今年も残すところ4時間ほどとなりました。
思い返すまでもなく今年もいろいろなことが起こりました。良いこともあり、でも悪いことのほうが多かった気もします。

避けられないこととはいえ、多くの訃報に接し、そのたびに蕭然とさせられる。
人間は長く生きていると、それだけ多くの固有名詞を知り、その分、しょっちゅう人の死に遭っている気分になる。
それは悲しくもありますが、豊かさの結果でもあるでしょう。
子どもはまだ固有名詞との出逢いを多く持たぬため、そのぶん人の死に無頓着でいられる。
私の場合、ヒッチコックがそうでした。この偉大な映画作家の訃報に私は驚くだけの知識がなかった。
むしろ、私はその人の死によって初めてヒッチコックを知ったのです。
テレビの各チャンネルで連日、追悼でヒッチコック作品が放送されたため、私はヒッチコックの素晴らしさを知ったのです。

年を取ってくると、別ればかりとなってくる。
でも、すこしは出逢いもあるのではないでしょうか。それは初対面を待望するというのに留まらず、むかしから知っている事柄の素晴らしさに気づくということも含まれます。五感を押しひろげて出逢いを受け止める。
もし、拙ブログが陰ながら皆様にとっての出逢いの一助になっていけたら、と願い続けてきました。来年も同じ願いを持ち続けます。

今年も一年間ありがとうございました。
よいお年をお迎えください。

荻野洋一

『俳優 亀岡拓次』 横浜聡子

2015-12-29 00:30:42 | 映画
 これほどバラバラに散乱したまま、回収しようともしない映画を見るというのも、たまにはいいものだ。世の中は妙な責任感で作家的回収意識が蔓延しているだけに。本来はかなり異端の作り手である横浜聡子という映画作家にとっては最も「注文仕事」に近い作品となったが、それを脇役俳優のしがなさと縁結びしているあたりが心強くもおもしろし。
 きのうは諏訪、きょうは山形、あすは三ノ輪、あさってモロッコ、帰って四谷。脇役俳優を演じる主人公・亀岡拓次(通称カメタク)の安田顕が、指示されるがままにいろいろなロケ先に出かけて行って、それなりに淡々と役をこなす。忙殺されるスタッフワークなら観客でも想像がつくだろうが、俳優部、それもメインキャストではない人たち(ロケ先の地方駅に到着早々、送迎のハイエース車内で「スケジュールが押しているんで、きょうはなくなりまして、カメタクさんの出番はあしたからです」的な伝達があったりする。そう言われたら「了解です」と言って、「きょう」の彼は宿近くの店でとりあえず飲むしかないだろう)の時間の流れ方それぞれブツ切りのパートは、スケジュール帳の上ではそれなりにポジショニングされているのだろうが、それを整理・伝達しているらしいマネージャー役の工藤夕貴はほとんど出演シーンもなく、電話によるリモートコントロールのみである。人はよく「距離感」なんていう言葉を使うだろう。この映画はその言葉を、煮たり焼いたりところてんにして咽せさせたりして供している。近そうで近くない、そんな惑星間にも似たエピソードのまとまりのつかぬ積載ぶりを見て、私はジェリー・ルイスの『底抜けてんやわんや』(1960)なんかを思い出した。
 インディーズ監督役の染谷将太、Vシネ監督役の新井浩文、俳優仲間の宇野祥平、イケメンの人気俳優の浅香航大、ロケ先の飲み屋の出戻り娘・麻生久美子など、年下との(意外な)豪華共演シーンも悪くはないけれども、はやり本作の白眉は、時代劇の大御所監督役の山崎努、新劇の座長女優の三田佳子のもとに馳せ参じた安田顕の、せつないようなひっそりとバンザイしたくなるような可愛がられ方である。
 三田佳子は、今年はじめに公開された『マンゴーと赤い車椅子』という、名匠・加藤泰の薫陶を受けた最後の生き残りたる73歳の仲倉重郎監督が、元AKB48秋元才加の主演で32年ぶりにメガホンを取った新作において、なんと老衰死するヒロインの祖母役を演じておられたので、一転、本作における新劇女優役は(『Wの悲劇』も思い出させつつ)、意気軒昂たる本来のこの人の色香、生気が感じられ、とにかくうれしく思った。


1/30(土)よりテアトル新宿(東京・新宿 伊勢丹裏)ほか全国で公開予定
http://kametaku.com

『あの頃エッフェル塔の下で』 アルノー・デプレシャン

2015-12-26 23:26:45 | 映画
 中央アジア、タジキスタンの首都ドゥシャンベ。カメラは町の壁面を大雑把に撮り流していったあと、滞在型ホテルの一室で一組の男女が別れを惜しむ光景を写し出す。「もう潮時だと思っている」。外国人らしき男は地元の女にそう告げ、別れを惜しむ女からもさして深刻な悲しみは感じられない。彼女もおそらく、男の「潮時」という言葉に内心で同意しているのだろう。この去りゆく男、彼が『あの頃エッフェル塔の下で』の主人公であるフランス出身の人類学者ポール・デダリュスである。ポール・デダリュス、この名はアルノー・デプレシャンの長編第2作で出世作ともなった『そして僕は恋をする』(1996)と同じ名であり、その点では同作の続編的性質を持っていると言え、より正確にはポール・デダリュスの青春時代と、その頃を回想する中年時代の2つの時代を描いていることから、『そして僕は~』の前日譚と後日譚を兼ねているとも言える。
 しかしポール・デダリュスという人物像は、トリュフォーの「ドワネルもの」のような人格的一貫性を持ってはおらず、さらに『クリスマス・ストーリー』(2008)ではマチュー・アマルリックではなく、エミール・ベルリングがポール・デダリュス役を演じていることを考えると、この固有名詞はあるひとつの存在を示すものではなく、言うなれば作者にとって(やや自伝的な)「扱いづらいと一族で忌避される、情緒不安定なわがまま息子」というような存在をジェネラルに拾い集めた符牒だと言えるのではないか。
 パリ在住のポール・デダリュスと地方在住の女子高校生が頻繁にかわすラブレター。それらは単に書き文字としての物質性から軽々と遊離し、過剰なるナレーションのコーラスを形成する。2人は、フランソワ・トリュフォーの最も名高い一本『恋のエチュード』におけるジャン=ピエール・レオーとイギリス姉妹の文通を模倣する。その真剣なまなざしと文の読み上げは、私たち観客の心を激しく打つと同時に、滑稽さの印象も抱かせる。作り手側はおそらく病にうなされたこのラブストーリーを、愉快な遊び感覚で眺めつつ作ってもいるのだろう。前作『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』(2013)が非常にシリアスであっただけに、今回はよけいに遊戯性を強めたのかもしれない。
 本作の副題 Nos Arcadies(私たちのアルカディア)という語こそ、本作を解くキーであろう。アルカディアとはラテン語で桃源郷、牧歌的な楽園を意味しているが、その語はおのずとバロック時代の画家ニコラ・プッサンの有名な絵画のタイトル「Et in Arcadia ego」つまり「アルカディアに我(死神)もまた」へとつながっていき、それはつまり、いかなる楽園の図においても髑髏が描きこまれるという宿命をも示唆し、いかなる生の謳歌の最中にあってさえ、死はすぐそこにあるという警句となっていく。
 「アルカディアに我(死神)もまた」については、今福龍太が2014年に出した『琥珀のアーカイヴ 書物変身譚』(新潮社)という本の中の「にもかかわらず(書物の)生を」という章で、レヴィ=ストロースへの考察を導入としつつ、くわしく論じているので、ぜひご参照いただければと思う。非常に美しい文章である。この映画の主人公ポール・デダリュスもレヴィ=ストロースを愛読していたことを思えば、大いなる必然的な関連を有している文章だと言えるだろう。


12/19(土)よりBunkamuraル・シネマ(東京・渋谷 東急本店裏)ほか全国順次公開
http://www.cetera.co.jp/eiffel/

『タニノとドワーフ達によるカントールに捧げるオマージュ』(作・演出 タニノクロウ)

2015-12-23 23:32:16 | 演劇
 人間は日々、無駄に等しいことに時間を浪費して過ごしている。筆者たる私などその典型であって、馬鹿なことに喜んだり、あせったりしている。そして、それを無数の死者が苦笑まじりに、多少の慈愛と共に眺めている。質量保存の法則を宇宙的規模に考えるなら、生者たちの全質量は死者のそれのゼロコンマ数パーセントに過ぎないだろう。
 西池袋にある東京芸術劇場。つい先日、青山真治が演出したジャン・ラシーヌ作『フェードル』を見た場所である。『フェードル』が上演された同劇場地下のシアターウエストのはす向かいに、アトリエイーストがある。切符を買うと、「場内は非常に暗いですので」と言われて係員女性から半球型プラスティック製の小さな電球を手渡され、アトリエに入る。すでにたくさんの豆電球が薄ぼんやりと暗闇に浮かび上がっている。上演時間を少し過ぎると、暗幕の向こうから5人のドワーフ(小人)が細長い三角形の三輪車に乗って、私たちが立ち尽くす暗闇に入場してくる。
 「しー!」「静かにしろ」「誰かに見られてる」。マメ山田をはじめとするドワーフたちが警戒を強めながら、ゆっくりと前進する。かなりおびえている。そこに立ち尽くしていた私たち観客は、豆電球片手に、彼らに道を空けるのだが、彼らは私たち観客を認識できないようである。いま、私たち観客もまた、亡霊という役を演じているのだ。彼らはおっかなびっくり、場内にある段ボール箱や幟、ロボット、壊れたテレビ、ゲームコーナーの20円の乗物などと戯れ続ける。演者たちはひとしきり戯れ、楽しんだふりをしている。私たち人間がこの世でやっていることである。観客は暗闇の中で、手の平に薄ぼんやりとした光を握りしめつつ死者の視線となって、ドワーフたちの戯れを眺める。
 やがて、彼らはそれらの戯れものを引きずって進み出す。アトリエの扉が開かれ、ドワーフたちは乗り物に乗ったまま、場外へと旅立つ。われら人間の短き寿命が名指しされているのだろうか。彼らは私たち観客を手招きする。100人ほどの観客が演者の先導によって、ぞろぞろとエスカレータに乗って、地上へ。私たちはおのれの死をあらかじめ先導する。カントールの言う死の演劇とは、私たち人間の生であり、死である。その後ドワーフたちは逃げ出して、夜の池袋に消えて行った。
 わずか1時間あまりの上演だったが、北青山のテアトル・ド・アパルトマン「はこぶね」を喪失したタニノクロウが、ポーランドの前衛劇作家・演出家・造形作家タデウシュ・カントールへのオマージュを媒介に、庭劇団ペニノの新たな展開を見せた。


同上演は12/24(木)まで
http://www.geigeki.jp/

『蜃気楼の舟』 竹馬靖具

2015-12-20 11:52:08 | 映画
 一艘の舟が、漕ぎ手もいないのに、湖の上をすうっと進んでいく。漕ぎ手ばかりか、舟上には誰ひとり見えない。いるとしても亡霊だけだろう。
 真利子哲也監督『NINIFUNI』(2011)の脚本も担当した1983年生まれの新鋭監督・竹馬靖具(ちくまやすとも)の長編第2作『蜃気楼の舟』は当初、「囲い屋」という業種の生態を取り扱い、社会告発的な内容となっている。彼ら「囲い屋」はホームレスの老人たちを廃品回収のようにワゴン車に乗せ、収容所に詰めこんで布団と弁当をあてがう代わりに、その生活保護費の大半をピンハネする悪徳業者のグループである。
 主人公の「囲い屋」青年を演じているのは、ピンク映画界の巨匠ガイラ(小水一男)の息子・小水たいが。彼がグループの中の厭世的な仲間の家に呼ばれていったあたりから様子が変になり、非現実、記憶、幻想がないまぜとなったようなイメージが優位となっていく。
 小水たいがは、収容されたホームレスの中に父親を発見する。父親役を演じた田中泯が、さすがの存在感を見せつける。といっても彼はもう、理由ははっきりしないが、記憶を完全に失っており、息子のこともまったく認識しない。人称性を喪失してもなお、その身体性は残る。ボロボロのパンツと靴のあいだから垣間見える田中泯の足首が、強烈に目に焼きつく。時にその過剰な審美性のあまり、作品を壊しているケースもなくはない田中泯であるが、人間というよりモノに近くなってしまった存在を、みごとに体現した。
 廃墟にたたずむ亡き母親とおぼしき謎の女、バレエダンサー、鳥取砂丘や山川草木の徘徊。主人公と彼の父はあてどなく歩く。歩行という行為がこれほど身体的危機の表象となっているのは映画史上、北野武の『その男、凶暴につき』、いや黒澤明の『どですかでん』以来ではないか。「囲い屋」の収容所内をトボトボと、ほとんどゲインのない歩幅で劇団「発見の会」の飯田孝男が足を小刻みに運ぶとき、画面を眺める受け手は、誰の身にも訪れる老いという現象を強烈に突きつけられるだろう。あの小刻みな、ほとんど震えと変わらないような歩幅こそ、われわれの未来の身体予想なのである。小刻みな歩幅は、一艘の舟のなめらかな滑走を嫉妬する。彼岸の自由を希求するためであろうか。


1/30(土)よりアップリンク(東京・渋谷神山町)ほか全国で順次公開
http://www.uplink.co.jp/SHINKIRO_NO_FUNE/