先日訃報を聞いた井上ひさしの戯曲を栗山民也が演出した〈東京裁判三部作〉の第一部『夢の裂け目』を、新国立劇場にて見る。切符を入手した際には、これが追悼公演のプラチナチケットとなるとは、つゆ知らずであった。
東京・根津を本拠地とする紙芝居の貸元(角野卓造)を中心に繰り広げられる、大文字の歴史のミクロ的解釈。二・二六事件以前のある日、この貸元がひとつの紙芝居を創る。それは、戦前の子どもたちにとっては忘れることのできぬ名作として語り継がれてきたが、これがじつは、戦後に開かれることになる極東軍事裁判を遙かに予告するものであったというのである。
「捨小就大(小を捨てて大に就く)」とは昔の中国の格言であるが、東条を抹殺する供儀によって、真の戦争犯罪者が千代に八千代に生き延びる、と主張する神話的劇構造が、タヌキの合戦物としてあらかじめ暗喩的に語られていた。戦前は「四谷の小さな大学」の国際法学者だったというヤミ屋の男(石井一孝)が途中から物語に介入して、この劇構造を徹底的に解明するべきだと主張するが、その紙芝居の原作者たる貸元は、GHQからの召喚を受け、この物語をもう二度と上演しない旨、署名をするのである。
ミュージカルでもあるこの物語はそして、「湯豆腐に生姜と茗荷をのせて食べる自分たち〈普通人〉、刺身を山葵醤油に付けて食べる自分たち〈普通人〉は、責任をまっとうする必要がないのよ♪」などと、根津町内の庶民たちによってクルト・ヴァイルのメロディ(ブレヒト『マハゴニー市の興亡』、いわゆるドアーズ「アラバマ・ソング」のメロディ)に乗せて楽天的かつモノフォリックに唱和され、3時間に及ぶ大作は、あっという間に大団円を迎えてしまう。こうして主体性、責任所在の不確定ぶりが、寒々しい楽天性の中で放置される。
紙芝居屋は、ワイプという映画的技法を用いて物語を更新するだろう。1枚の画用紙をゆっくりと抜き取ると、背後から新たな物語が現れてくる。この際限なき物語の無責任な語り手である貸元は、「エンマ・ボヴァリーは私だ」という認識と同様、私たちそのものなのであろう。
東京・根津を本拠地とする紙芝居の貸元(角野卓造)を中心に繰り広げられる、大文字の歴史のミクロ的解釈。二・二六事件以前のある日、この貸元がひとつの紙芝居を創る。それは、戦前の子どもたちにとっては忘れることのできぬ名作として語り継がれてきたが、これがじつは、戦後に開かれることになる極東軍事裁判を遙かに予告するものであったというのである。
「捨小就大(小を捨てて大に就く)」とは昔の中国の格言であるが、東条を抹殺する供儀によって、真の戦争犯罪者が千代に八千代に生き延びる、と主張する神話的劇構造が、タヌキの合戦物としてあらかじめ暗喩的に語られていた。戦前は「四谷の小さな大学」の国際法学者だったというヤミ屋の男(石井一孝)が途中から物語に介入して、この劇構造を徹底的に解明するべきだと主張するが、その紙芝居の原作者たる貸元は、GHQからの召喚を受け、この物語をもう二度と上演しない旨、署名をするのである。
ミュージカルでもあるこの物語はそして、「湯豆腐に生姜と茗荷をのせて食べる自分たち〈普通人〉、刺身を山葵醤油に付けて食べる自分たち〈普通人〉は、責任をまっとうする必要がないのよ♪」などと、根津町内の庶民たちによってクルト・ヴァイルのメロディ(ブレヒト『マハゴニー市の興亡』、いわゆるドアーズ「アラバマ・ソング」のメロディ)に乗せて楽天的かつモノフォリックに唱和され、3時間に及ぶ大作は、あっという間に大団円を迎えてしまう。こうして主体性、責任所在の不確定ぶりが、寒々しい楽天性の中で放置される。
紙芝居屋は、ワイプという映画的技法を用いて物語を更新するだろう。1枚の画用紙をゆっくりと抜き取ると、背後から新たな物語が現れてくる。この際限なき物語の無責任な語り手である貸元は、「エンマ・ボヴァリーは私だ」という認識と同様、私たちそのものなのであろう。