荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ペット』 クリス・ルノー

2016-08-28 12:56:31 | 映画
 ユニバーサル社のアニメ作品『ペット』を楽しむためには、そのタイトルにもかかわらず、じっさいにペットを飼っている必要も可愛がっている必要もまったくない。ここに登場するメインキャストはすべてペットか、ペットであることに脱落したアウトサイダーかのどちらかなのだが、それは『トイ・ストーリー』シリーズのおもちゃたちとまったく同じポジショニングを踏襲している。踏襲してはいるが、よりオーナー(飼い主)から独立した存在である。
 『トイ・ストーリー』のピクサー社が親会社ディズニーとの呉越同舟のなかで少しずつポテンシャリティを落としつつあるなか、『ミニオンズ』の制作会社イルミネーション・エンターテインメント社がピクサーに取って代わろうとしているように思える。『ペット』が写し出すマンハッタンの世知辛さは、ジョン・ラセターの初期作『バグズ・ライフ』『モンスターズ・インク』まであと一歩まで来ている。
 アレクサンドル・デスプラによる音楽も出来がいい。テイラー・スウィフト、ビースティ・ボーイズのナンバーが彩り、最後にはジョン・トラヴォルタ、オリヴィア・ニュートン・ジョン共演のミュージカル『グリース』の「We Go Together」のカバーで締める。
 失踪する主人公の犬の声がばかに男臭く野太さを感じさせるものだが、この声を俳優のルイス・C・Kがやっている。ルイス・C・Kは先日公開された『トランボ』で、ハリウッド・テンのひとりである脚本家アーレン・ハードも演じていた。実在の人物たちを巧妙に、なおかつパロディすれすれの遊び感覚さえ漂わせながら配置した点が、『トランボ』の最大の長所と言っていいけれども、皮肉なことに最も効果的な登場人物は、原作のノンフィクションには当然出てこない、ようするに実在ではない人物であるアーレン・ハードなのだ。ご存じのようにハリウッド・テンにアーレン・ハードなんていう人間はいない。ブラック・リスティに彼のモデルに近い脚本家はいるが、肺癌に冒され、ダルトン・トランボからの借金を踏み倒したまま逝く彼の悲愴なありようは、『トランボ』で最も美しい人物像だったように思う。彼はまたトランボのいわゆる「プールサイド・コミュニズム」(つまりハリウッドの高額所得者が贅沢ついでに共産主義を信奉していることを皮肉った呼称)に対し「もう何も聞きたくない」と応じている。
 このアーレン・ハードを演じたルイス・C・Kは、メキシコのユダヤ系マジャール人の家系に生まれたスタンダップ・コメディアン兼シナリオライターであり、演出も編集もこなす。今後の動向を注目したいタレントだ。『ペット』の主人公の声優をこの人がつとめたことは大いに示唆的だと思う。


TOHOシネマズ日本橋(東京・三越前)ほかで公開
http://pet-movie.jp

『ジャングル・ブック』 ジョン・ファヴロー

2016-08-23 02:12:32 | 映画
 前作『シェフ 三つ星フードトラック始めました』(2014)ではみずから主人公を演じつつ、フロリダからニューオーリンズ、テキサスへと遡行し、アメリカ南部への深い愛を吐露したジョン・ファヴロー監督だが、こんどはディズニー映画を無難に乗りきることによって、次回のわがままを通すための後ろ盾と資金を確保しようとしているのだろうか? であるにしても、マーベルコミックという彼のホームグラウンドにおける『アイアンマン』1&2同様、この人の刻印がはっきりと認められる。
 ディズニー映画というと、すぐに歌い上げ調の感動ミュージカルバラードで飾り立ててしまう傾向が近年ますます強まっているが、ジョン・ファヴローはそっちに逃げない。新作『ジャングルブック』は、ディキシーランドジャズをはじめとする南部の音に、涙ぐましい愛情表明を図っている。この表明のためにこそ彼は、本作の監督を引き受けたのではないか。
 たとえばクリント・イーストウッド監督『ジャージー・ボーイズ』(2014)でミュージカルダンスを披露したクリストファー・ウォーケンにディキシーランドをシャウトさせてみせる。彼が声を担当した巨大マントヒヒがディキシーランドジャズに乗せて「俺様はおまえのようになりたいのさ」と主人公少年をいやらしく勧誘する。
 また、巨大ニシキヘビの声を担当したスカーレット・ヨハンソンも「トラスト・ミー」なんて歌詞を気だるく歌うのがエンドクレジットで流れ、挙げ句の果てにはドクター・ジョンの渋いサザンロックが最後に全部持っていくのだ。しょせんはディズニーの特撮効果の品評会だと侮るなかれ。『マレフィセント』で主人を失って何年も経過した羽がバサバサと激しくうねり始める瞬間の映画的興奮を、時にディズニーは現出させうるのだから——

 『ジャングル・ブック』は、古典的名作アニメの実写化という課題を軽やかにクリアする快作だ。〈野性の少年〉を主人公とするという点では、同時期に公開中のデヴィッド・イェーツ監督『ターザン:REBORN』と重複するわけだが、その精神性は180°異なる。同作についての拙ブログ記事にも書いたことだが、主人公の野性性は『ターザン:REBORN』においては、植民地主義者による植民地主義批判という、「盗っ人猛々しい」説教臭さによって塗り込まれてしまった。大英帝国の貴族の子弟でありながらゴリラの集落で育ったターザンが、ベルギーのコンゴ植民地経営の圧政ぶりに対してノーを言ったりする。この政治的バイアスを耐えがたく考える映画ファンも多いことだろう。
 『ジャングルブック』の素晴らしさは、映画の全編があくまでもジャングルの掟に留まるという点である。掟の墨守/逸脱のあいだをつねに揺れながら、旅に出ては引き返し、また離反しつつ、放蕩息子は帰還するのである。オオカミの子として育てられた主人公のモーグリ少年は、ジャングル共同体を愛し、と同時に他者でもある。彼は愛する故郷であるオオカミの里を発たねばならない。彼は離反することによって一体化するのである。


丸の内ピカデリー(東京・有楽町)ほか全国で公開中
http://www.disney.co.jp/movie/junglebook.html

『ターザン:REBORN』 デヴィッド・イェーツ

2016-08-18 11:06:04 | 映画
 無条件にすばらしい映画というものが現存するという事実に私たちは日々驚かされてきたのだから、どんな映画作品にもその功罪を問いたいとは思わないが、しかし日常的に「あそこはともかく、ここはそれほど良くはない」などと偉そうに言いたくなってしまう。
 『ハリー・ポッター』シリーズの後期作品群——『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』(2007)、『ハリー・ポッターと謎のプリンス』(2009)、『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART 1』(2010)、『同 PART 2』(2011)——はまったく見ていないから、それらを手がけたリヴァプール出身のイギリス人監督デヴィッド・イェーツがどういう映画を撮る人なのか見当もつかぬまま、彼の最新作『ターザン:REBORN』を見ることになった。
 この作品の「功」の部分から言うなら、主人公ターザン(アレクサンダー・スカルスガルド)とその妻ジェーン(マーゴット・ロビー)の強烈なアフリカ愛だ。こんな理想郷を共有する夫婦を、羨まぬ人はいまい。ターザンはアフリカで孤児となり、ジャングルでゴリラに育てられたが、もともとはイギリス貴族クレイトン家の跡取りなのであり、本作の冒頭、アフリカでの冒険を終えた夫妻は、ロンドンの邸宅で退屈している。だから、ベルギー王室による西アフリカ・コンゴの支配の実態調査を依頼されてからのターザン夫妻の「命の洗濯」ぶりは微笑ましく映る。特に、百獣の王たる夫と共にコンゴに戻った妻ジェーンの喜びようがいい。灼熱の日光に当たっても、抜けるような白い肌がびくともしないのだから、現地の村人たちが彼女に一目置くのも当然だ。
 しかしながら、この映画の「罪」の部分、と言うべきか、本作を見た人なら誰もが疑問に思ったことだろうが、この映画の善玉をみずから任じるイギリスに、ベルギー王室によるコンゴ圧政を叱責する資格が、あまつさえアフリカの救世主を気取る資格があるのか、という問題である。ターザンの時代、大英帝国ほど大がかりに、アフリカおよび中東、インド、中国などを自分たちの都合のいいように支配した国はない。彼らにベルギーをたしなめる資格はない。その点でこれはプロパガンダ映画以前の作品ということになる。


丸の内ピカデリー(東京・有楽町マリオン)ほか全国で公開中
http://wwws.warnerbros.co.jp/tarzan/

『花芯』 安藤尋

2016-08-12 23:19:04 | 映画
 果たして瀬戸内寂聴と映画の相性はいいのか、悪いのか。熊切和嘉監督『夏の終り』(2013)を見るかぎりでは、良さそうに見えて、じつはさして相性がいいように思えない。しかしそれは熊切和嘉監督と満島ひかりが、単に瀬戸内寂聴とマッチしなかっただけなのかもしれない。豊田四郎=市川崑共同監督、三田佳子主演の『妻と女の間』(1976)なんかは意外な拾い物だったのだから。
 安藤尋監督と瀬戸内寂聴の組み合わせは、一見してミスマッチのように思える。でも、意外とそうじゃないという点が、映画というものの良さであろう。『blue』(2001)『僕は妹に恋をする』(2006)『海を感じる時』(2015)で組んできた盟友・鈴木一博のカメラが良かったからなのか、それとも黒沢久子のシナリオが女性の性と心理をうまく捉えていたからなのか、それは分からないが、いやそれだけではないだろう、青春映画のジャンルに偏っていた安藤尋のフィルモグラフィーが、今回いっきに変態を遂げたように思える。

 理工系学部に転籍することでたくみに徴兵を回避したフィアンセ(林遣都)を軽蔑していたヒロイン(村川絵梨)は、なぜ両親の言いなりになって、この凡庸なフィアンセと結婚しなければならないのか? そのことは、林遣都を秘かに慕うヒロインの妹(藤本泉)が、「あれだけ奔放に振る舞っておきながら、肝心要の結婚という段になって、なぜ親の言いなりになったのか?」と、姉に向かって詰問していた。 
 この、肝心要のところで我を通さなかった、という既成事実こそ、この映画の真の主題だと、私は見ながら思った。つまりヒロインは、不幸な結婚を必要としていたのではないかということである。親に言いなりに、「結婚は愛やロマネスクではなく、現実である」などとうそぶきながら、不実なる犠牲をすすんで背負いたいのである。この不幸の発動によって、ヒロインの否定の身振りにガソリンがまぶされていく。彼女は夫のことを一瞬たりとも愛したことも慕ったこともない。それは本人が夫に面と向かって宣言していることである。夫と久しぶりに燃えた一夜、彼女は言い放つ。「愛がなくても、感じるのね」と。さらに「愛する人とセックスしたら、どうなっちゃうのだろう?」とも。
 つまり、身の丈に合わぬ不幸をまとうことによって、彼女は心身共に禁忌を犯す、この身振りを本能的に必要としていたのだ。もっと言うなら、愛する人との幸福な恋愛や結婚を望んでさえいないということになる。事実、恋した間男(安藤政信)と初めて一夜を共にした時の村川絵梨の呆然とした絶望的表情を見てみればいい。責め苦を負い、孤立し、蔑まれ蔑み、絶望することが、彼女の必須課題だったのだ。
 その人生レッスンにつき合わされた夫、子ども、妹、間男、両親などがまことに気の毒なことであるが、彼女は自分がそもそも毒まんじゅうであるという自覚のもとに行動していたのである。その径路を丹念に辿っていく安藤尋の演出は、これまでのフィルモグラフィーから一線を画した。安藤の求めに応じ、裏切りと孤立を選び取っていく冷血漢女性を、体当たりで演じた村川絵梨に喝采を送らねばならない。


テアトル新宿(新宿伊勢丹裏)にて公開中
http://kashin-movie.com

『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』 黒川幸則

2016-08-08 04:05:25 | 映画
 現在の社会情勢、環境問題、放射線汚染に対する科学の無力を見るにつけ、人類文明はいつ終わりを告げても不思議ではないように思える。かつてのヒット作『マトリックス』の有名な台詞「人類は地球にとってのガン細胞だ」というのは非常なる卓見でり、地球におけるガンの増殖という観点から黒沢清の『回路』のおそろしいリアリティが、現在にずっと続いているのだと思う。
 徐々に人間が減っていき、ガン細胞へと変換されていく。生者と死者のしばしの邂逅を描いた黒沢の『岸辺の旅』、そしてモコモコ星人が人間と同居しながら文明のたそがれを一緒に観察している鈴木卓爾の『ジョギング渡り鳥』、これらの新しい日本映画の延長線上に、黒川幸則監督『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』はある。
 まず、多摩というロケーションがおもしろい。東京でありつつ東京が終わろうとしている空間、関東平野の限界空間、この風景から『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』はピタリと付いて離れない。以前、美術作家Tattakaさんが写した埼玉県朝霞市の風景写真を何枚か眺めながら、大都会の近郊ですでに自然による人類文明の再征服がもう始まっていると思ったことがある。『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』からも同じ予兆を感じた。メイン舞台となる、兄貴分役の鈴木卓爾が主人公の田中淳一郎を居候させる家屋が、すでにして危なっかしい。ちょっと目を離した隙に、今すぐにでも『岸辺の旅』よろしく廃墟に変身し、近くの雑木林に飲みこまれてしまいそうな怪しさが漂っている。
 そして労働から解放され(排除され?)、社会生活を諦めている人々。口では独自の行動規範が大きな声でもっともらしく主張されているが、現実の彼らの生活は無為そのもので、酒場の店番をつとめる柴田千紘以外は、いかなる社会生活からも隔離されている。落伍者としての惨めさはなく、むしろ朗らかでさえあるのだが、それはおそらくカラ元気であろう。カラ元気を出していないと、大きく開口している深淵に落ちていってしまいそうだからだ。
 『岸辺の旅』の幽霊、『ジョギング渡り鳥』のモコモコ星人と同じく、なんら人間と見分けのつかぬ異界の使者が入れ替わり立ち替わり現れて、人間を誘惑し、隙あらばあっちの世界に連れ出していこうと画策している。休業中の音楽家である主人公(田中淳一郎)は、異界の使者たちに特にマークされているらしい。
 ジャック・ロジエのバカンス映画のような登場人物たちのカラ元気とは裏腹に、この映画はぎりぎり文明の淵に留まっているに過ぎない。この映画の監督、黒川幸則は不完全なものに取り憑かれている。画面のつながりよりも暴力的な音響効果に重きの置かれたこの映画には、数多くの意味不明なカット、次へと繋がっていかない行方知れずのカットが散見される。誰かが歩いているカットが中途半端なデュレーションで挿入されるが、それは誰かがどこかへ向かっているという物語構造になんら貢献しないカットなのだ。不完全なものを取り込んで、アンバランスな状態を保っておかないと、映画自体が不明の催眠術によって消滅させられてしまうのかもしれない。
 登場人物たちは「竹林の七賢人」気取りで、アルコール漬けの田園生活を送る。アルコールで始終まどろみつつ、でも覚醒している。アルコールによる酩酊が、この世に踏み留まるための心構えであるとさえ考えているようだ。劇中、冷めたピザが何度も登場するが、冷めたピザをまずいとは誰も言わない。そうした言動が命取りになるためである。彼らの言動、カラ元気は、何かから逃れるための願掛けなのである。


新宿K’s cinemaにて8/19(金)までレイトショー公開
http://www.villageon.ooo