荻野洋一 映画等覚書ブログ

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ラシーヌ作『フェードル』(演出 青山真治)

2015-12-11 01:26:43 | 演劇
 オーソン・ウェルズによる「ヴードゥー・マクベス」ならぬ、青山真治による「マスムラ・フェードル」の様相を呈している。
 緊急入院という今秋の予期せぬトラブルから間もない時期に上演されている本作が、はたして青山真治の演出家としての本領が真に発揮され得た作品であるかどうかは分からない。しかし、俳優たちのテクスト解釈には、通常のラシーヌ悲劇の上演とは違い、喜劇的な要素が濃厚になっている。ジャン・ラシーヌの戯曲と違ってハッピーエンドでもある。
 増村保造の映画を見ていて、坂道を転げ落ちていく男女の運命論的悲劇を客観的に眺めているうちに、思わず失笑を禁じ得なくなった経験はおありではないだろうか? 今回の青山ラシーヌがあちらこちらに仕掛けてまわるのも、悲劇を眺める際に副作用のように現れてくる失笑の捕獲装置の作動である。
 夫の息子イポリットに恋をする王妃フェードル(とよた真帆)は、何か事があるとすぐに自己憐憫と自殺願望をけたたましく主張し始める。これを、乳母で相談役のエノーヌ(馬渕英俚可)が聞いて失笑しながら諫める。笑いつつ批評的答弁を繰り出していくのである。これは王子イポリット(中島歩)の侍従テラメーヌ(高橋洋)によるリアクションも同様である。王妃フェードル-乳母エノーヌという女2人組と、イポリット王子-侍従テラメーヌという男2人組が鏡像的な構図をつくり(とよた真帆によるフェードルは、増村映画における不倫愛に身をやつす可憐な主婦・若尾文子となり、中島歩によるイポリットは川口浩となる)、共にメロドラマとその覚醒的批評のリアクションを映し出している。そしてその元素は笑いなのである。
 イポリットが真に愛するのはアテネ王の娘アリシーだが、このアリシーを演じるのがイケメン若手俳優の松田凌だったり、王(堀部圭亮)の衣裳が可憐なプリーツスカート、王冠と髭がまるでニッカウヰスキーのマスコットキャラクターのようだったり、ひどく滑稽にローカライズされている。オーソン・ウェルズは、ニューディール政策下のNYハーレム地区でオール黒人キャストを起用し、シェイクスピア悲劇をカリブ海のハイチに移して「ヴードゥー・マクベス」を演出し、いっぽう青山真治はラシーヌ悲劇をオール黄色人種によって、荒唐無稽にローカライズする。この時、柱時計やサンドストームの微細なノイズを伴ってラシーヌに起こったことは、悲劇の不条理なる喜劇化であり、1時間40分という、まるでスタジオシステム内で生産される映画のような、悲劇的人物たちの喧噪模様だ。「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」(松尾芭蕉)


『フェードル』は東京芸術劇場シアターウエスト(東京・西池袋)にて12/13(日)まで
http://www.majorleague.co.jp/


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