荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『OURS TEXT 001 未来の住人のために』

2013-01-31 08:01:21 | 
 横浜国立大学の大学院・建築都市スクール(Y-GSA)の主催した2回のシンポジウム《建築をつくることは未来をつくることである》を採録したこの小冊子『OURS TEXT 001 未来の住人のために』(nobody編集部 刊)は、サブプライム危機に端を発する2007年のリーマン・ショック、そして2011年の東日本大震災が、日本における建築という分野の試練、いや理念的な破綻を招いたと定義づけている。日本の土地政策、土木・建築政策はすべて間違っており、狭小な国土であるにもかかわらずアメリカ式の持ち家信仰を奨励し、同時にソビエト式の公団システムも推進したが、それらの政策はここへきて完全に行きづまり、国民の富が住宅ローンの呪縛によって不毛に吸い上げられ、一生が台無しとなっているのだという。
 そして、大震災の被災地域における仮設住宅のあり方をパネリストたちが熱く話し合うが、この議論を読んでいると、ひょっとして日本建築の新たなパラダイムは、被災地の仮設住宅が鍵を握っているのではないか、という夢想さえ抱かせる。

 それと、私も以前からうすうす感じていたが、改めて認識したのは、日本の住居は戸建てにせよマンションにせよ、セキュリティとプライバシーがいたずらに追求されすぎているというのである。個人主義が未発達な日本、地下鉄で居眠りしてもスリに遭わず、個の緊張を欠いた日本、などとよく言われるけれども、その反面じつはこれほど住空間が隣近所や通行人と隔絶している国もめずらしい気がする。
 「ヨーロッパの古い建築が連なっている街は、ある意味で日本の住宅などよりも厚い壁なのに、一つひとつの建物に住んでいるというより、なんとなく街に暮らしている感じがあります。ホテルの窓から見ても、どの住宅の窓も開いていて中がよく見えます。日本では建築のつくり方がいけなかったのかもしれないし、以前からそういう構造だったのかもしれない。」(妹島和世談 本書59-60頁)
 たしかにヨーロッパの住宅は窓が開放的で、カーテンを神経質に引くこともなく、昼夜を問わず内部が丸見えであることが多く、住人がワインを飲みながら食事をとる光景や、好さそうなランプのもとで読書をしている姿が外部の視線に晒されてまったく憚ることがない。

松本竣介について

2013-01-28 07:11:57 | アート
 昭和前期の画家・松本竣介の生誕100年レトロスペクティヴに、会期終了ぎりぎりで滑りこんだ(東京・砧 世田谷美術館)。
 中学入学直前に脳脊髄膜炎をわずらい、一命を取り留めたものの聴覚を失った松本はその喪失ゆえに、絵に対するストイシズムを死ぬまで研ぎ澄ませた。わずか36歳で病死してしまうが、その画業は密度が濃い。    
 国鉄横浜駅近くの運河にかかる橋と工場のなんとはない風景を折々にくり返し描いた『Y市の橋』のシリーズ、その最後の1作が哀しい。それまで戦時中であることを忘れるかのような青黒くひんやりとした肌合いのシリーズだったが、空襲によって赤く焼き爛れた戦後の風景がそこにある。お茶の水ニコライ堂を描いた諸作にも、同様に画家の格闘が見えてくる。今回のレトロスペクティヴでは、モダニズムの崩壊を身をもって生きた松本の作品が一堂に会し、それを目撃するまたとない機会となった(写真は展覧会カタログの表紙)。

 台頭した軍部が、美術界をいいようにあやつるようになる。時局に鑑み国策に準じよ、でなければ画材を配給しないぞと画家たちに脅しをかける軍部。画壇でこれに敢然と反論するのは、若き日の松本一人のみである。軍部の圧力に屈し、国策に協力した芸術家たちは、戦後は一転して民主主義を謳歌する絵をこぞって描きはじめた。しかしもし、戦後になっても依然として戦争画を飽くことなく描いている人がいるならば、逆に私はその人を真に認めるだろう、と松本は言った。そして、戦後3年目に彼は志半ばにして生を終えねばならない。
 昨今の日本に蔓延する閉塞的な国粋主義化をみると、現在が松本の抵抗的画業を見るのにもっとも適した時代になってしまったことを実感せざるを得ない。

『共喰い』 青山真治

2013-01-25 02:13:01 | 映画
 公開日がずっと先のことであるため、青山真治の最新作『共喰い』の内容について詳述するのは控えたほうがいいだろうが、話したくてしかたがない。ブランクを埋めるリハビリのような『東京公園』のせつなくあたたかい徐行運転から一転して、臆面もなくドス黒い青山映画が帰ってきた。舞台設定は『赤い橋の下のぬるい水』を思い出させるけれども、微速度撮影でとらえた河川に潮が満ち引きする冒頭のカットから不穏極まりなく、今村の諧謔味からはどんどん遠ざかる。
 ローカルに留まれば留まるほど普遍的たり得る、というのは人口に膾炙した映画論だが、『共喰い』にはまさにそれがあてはまり、『Helpless』『EUREKA』『サッド ヴァケイション』と同じ土着の匂いが全カットに滲み出ている。セックスに対する欲望をたぎらせた高校生の菅田将暉を中心に、父・光石研、母・田中裕子、ガールフレンド木下美咲、父の愛人・篠原友希子のアンサンブルが響かせる不協和音。それはローカルであると同時に普遍的、凶暴であると同時に覚醒し、青春日記的であると同時に古代神話的、感覚に準じると同時に正確無比である。それはつまり、青山映画そのものだということだ。
 ポツドール『おしまいのとき』(2011 下北沢ザ・スズナリ)での檄演が忘れられない篠原友希子は、ついに映画界に真の足跡を残した。それと、田中裕子が義手を着脱するときのあの妙な「スポッ」という音。その瞬間は写されず、画面はその音につねにハッとする菅田将暉にいくのである。
 映画史上もっとも激烈な雨のナイト・シーンが、作品の後半を埋め尽くすだろう。が、それ以上のことはまだ口を慎まねば。風神雷神図がとうとう映画に雨風を巻き起こしたのだ。


今夏、新宿ピカデリーほか全国で公開予定
http://www.bitters.co.jp/tomogui/

『ドラゴンゲート 空飛ぶ剣と幻の秘宝』 徐克(ツイ・ハーク)

2013-01-20 11:10:41 | 映画
 徐克(ツイ・ハーク)の新作『ドラゴンゲート 空飛ぶ剣と幻の秘宝』(龍門飛甲)は、武侠映画の名匠・胡金銓(キン・フー)の代表作『血斗竜門の宿』(1967)を3Dリメイク化したもので、ツイ・ハークがこのリメイクに挑むのは、マギー・チャン主演の『ドラゴン・イン』(1992)に次いで2度目のことである。ツイ・ハークがキン・フーから衣鉢を継ぐことに、どれほど心を砕いているかがうかがい知れるというものだ。
 辺境の砂漠に取り残された旅の宿という空間の限定性、60年に一度の砂嵐によって砂漠の砂が取り払われて財宝の敷きつめられた巨大城郭がわずか2時間だけ姿を現すという時間の限定性、それぞれの異なる事情からある一点の対立関係に収斂する説話の限定性、これらが渾然一体となりつつ、なんとも捨てがたい映画体験と化す。あたかも映画というものが、限定事項によって足かせを嵌められれば嵌められるだけ恍惚の度合いを増すマゾヒズムの同義語であるかのように。
 主演こそ国際的にネーム・バリューのある李連傑(ジェット・リー)がつとめるが、画面の見栄えとしては完全に女優上位の映画だ。前回リメイク版で明朝廷の横暴な宦官と事をかまえる女剣士を演ったのはマギー・チャンだったが、今回版では陳凱歌『花の影』、婁燁(ロウ・イエ)『ふたりの人魚』でひところは中国四大女優のひとりに数えられた周迅(ジョウ・シュン)が演っている。彼女のニコリともしない年増の侠女ぶりが、そこはかとなき色香を醸している。
 それと特筆すべきは、韃靼(タタール族)の女首領・布嚕嘟(ブルド)の役を演った台湾女優の桂綸鎂(グイ・ルンメイ)。顔に黒いタトゥーを彫りこんで、けたたましい奇声を発しながら大酒をあおる姿には、野蛮人を演じることの愉しさを身体いっぱいに表現していた。想像するに、中華思想のなかで育った中国の役者にとって蛮族の役柄をこなすという行為は、都会のインテリ俳優が嬉々として農民や漁民を演じるのに似て、非常に愉しい挑戦と映っているのではないか(ただし、日本人、朝鮮人、ベトナム人など分別くさい周辺民族を演じるのは鬱陶しいだけにちがいない)。もちろん演技上の解釈は、韃靼の末裔たる現代モンゴル人から見れば、滑稽そのものではあるのだろうが。


TOHOシネマズ六本木ヒルズほか全国で順次公開
http://dragongate-movie.jp

『レ・ミゼラブル』 トム・フーパー

2013-01-18 02:02:03 | 映画
 女工ファンテーヌ(アン・ハサウェイ)が「♪夢やぶれて」を歌うカットが典型的な例であるが、とにかくクロースアップで押してくる。オリジナルの舞台版はロンドンではバービカン・シアター、東京では帝劇というふうに千人を超える大劇場での上演が基準となるから、クロースアップが映画版のアドバンテージになるという考えが監督のトム・フーパーにあるのは明らかだ。
 このサイズですぐに気づくのは、歌い手のわずかなブレス、嗚咽、ビブラートさえも画面と音声がシンクロしていることだ。ひょっとしてこの作品は同時録音で撮影されたのでは、という疑問が生じる。聞けば、やはり同録だという。現代映画のドラマ部分はたいてい同録で撮影されるが、ミュージカルのパートでは同録は用いられない。「プレスコ」といって、まず音源となる楽曲だけを先行して完成させ、撮影時はスタジオ内でこの音源を大音量で流しながら、演者には「口パク」で演じてもらうのが通常だ。過去のミュージカルから現代のMTVまで、多くがこの手法で製作されている。ところが本作は同録を導入したため、「プレスコ」撮影よりも、ややもすればカットが長くなるのは必定だ。間延びを思い悩まないことがフーパーの命題となった。フーパーはおそらく、『ムーラン・ルージュ』(2001)の軽薄さから遠ざかりたかったのだろう。
 単純な技術的疑問として、現場で流されるカラオケのスコアをどうやって消去したのだろうか。上から単に伴奏トラックをかぶせれば、現場で拾ってしまうカラオケノイズとシンクロしてくれるものなのだろうか。つまり、ボーカルオンリーのトラックが存在しなくても、うまく成立してしまうものなのか。ア・カペラで歌う役者をまず撮影し、画面に合わせて伴奏トラックを事後処理で作成するという方法もなくはないが、そのあたり識者に訊いてみたいところではある。
 革命に失敗し、ひとり生き残った主人公の娘のボーイフレンド(エディ・レッドメイン)が、仲間の溜まり場だったカフェで淋しく歌う「♪カフェ・ソング」の場面は脆弱。革命に殉じた仲間たちをよそにひとり命拾いした末に手に入れる家庭の幸福とは、かくも大いなる恥辱でもあるという志士の無念を、作品はもっと強力に提示しなければ、いくら最後に無名の志士たちにオマージュを捧げたところで締まらないのではないか。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか、全国で公開中
http://lesmiserables-movie.jp