中央公論新社から、小谷野敦・細江光編『谷崎潤一郎対談集──藝能編』という本が出ている。今後、芸能以外の分野で続刊があるのかは知らないが、こういう記事が一冊にまとまるというのはうれしいものである。
巻頭は女優の岡田嘉子との対談で、これは1926年の雑誌「映画時代」からの再録だから、つまりソビエトへの亡命前の岡田嘉子と谷崎の対談ということになる。1926年というと、谷崎が栗原トーマスといっしょに大正活映で『アマチュア倶楽部』を製作してから6年しか経っていないから、谷崎もまだ映画人としての自覚を失っていないころだ。『アマチュア倶楽部』の主演で、日本映画史上はじめて水着姿を披露した葉山三千子は、四方田犬彦によれば、谷崎の小説『痴人の愛』(1924-25)のモデルになった人だ。葉山三千子は1990年代まで生き延び、四方田は池袋の病院へ彼女を見舞ったと書いていたことがある。
そんないろいろなことを思い出しながらダラダラと読みすすめると、注釈がくわしいから最高におもしろい本である。もちろんシリアスな文学論などなく、ただただ芸能人たち相手によもやま話に花を咲かせているだけの軽い読み物である。岡田嘉子以外の対談相手としては、岡田時彦(岡田茉莉子の父)、高峰秀子、杉村春子、淡路恵子、有馬稲子、春川ますみ、叶順子、若尾文子、岸田今日子、古川緑波、淀川長治、浪花千栄子etc.と、圧倒的に映画女優が多く、谷崎好みのメンバーである。あとは歌舞伎役者など。
本書のクライマックスは、小山内薫、永井荷風、久保田万太郎らを囲んだ「『お国と五平』芝居合評会」だろう。これは是非ものの必読記事。谷崎の戯曲『お国と五平』を1922年7月、帝国劇場(東京・丸の内)で谷崎みずから演出を担当した上演に対し、みんなで寄ってたかってケナシまくるという、なんとも無残な記事なのである。谷崎がちょっとでも言い訳すると、小山内あたりが容赦なく「苦しい逃げ方をするな」と釘を刺す。
1897年の夏に尾上菊五郎、市川新蔵があいついで亡くなり、このふたつの葬列が共に人形町を通過して、本所押上の大雲寺に向かうのを、幼少期の谷崎が目撃しているという注釈が出ているのもすばらしい。谷崎は、人形町のしゃも鍋と親子丼で有名な「玉ひで」の数軒隣に生まれ育っている(「玉ひで」は現在でも昼になると親子丼目当ての行列ができるが、夜のしゃも鍋の方がオススメだ)。歌舞伎役者の葬列がわざわざ人形町を通ったのは、老舗の旦那衆や花柳界への挨拶まわりも兼ねてのことかと思われる。
徳川夢声との対談の中で谷崎が吐露する次のようなことばを、私は非常に気に入っている。曰く、「いま、顔が知れてるためにこまることもあるんだが、どうかすると、都合のいいこともあるんですよ。汽車なんぞ満員のときに、ちゃんと顔を知ってて、“どうぞこちらへ” と、ゆずってくれるときなんか、たいへんいい(笑)…ご老体だからいいこともありますよ。美人がのってきて、どこへすわろうかと迷ってね、老人のそばなら安心だというんで、ぼくのとなりへ腰かける(笑)」 夢声「実は安心じゃあない(笑)」
巻頭は女優の岡田嘉子との対談で、これは1926年の雑誌「映画時代」からの再録だから、つまりソビエトへの亡命前の岡田嘉子と谷崎の対談ということになる。1926年というと、谷崎が栗原トーマスといっしょに大正活映で『アマチュア倶楽部』を製作してから6年しか経っていないから、谷崎もまだ映画人としての自覚を失っていないころだ。『アマチュア倶楽部』の主演で、日本映画史上はじめて水着姿を披露した葉山三千子は、四方田犬彦によれば、谷崎の小説『痴人の愛』(1924-25)のモデルになった人だ。葉山三千子は1990年代まで生き延び、四方田は池袋の病院へ彼女を見舞ったと書いていたことがある。
そんないろいろなことを思い出しながらダラダラと読みすすめると、注釈がくわしいから最高におもしろい本である。もちろんシリアスな文学論などなく、ただただ芸能人たち相手によもやま話に花を咲かせているだけの軽い読み物である。岡田嘉子以外の対談相手としては、岡田時彦(岡田茉莉子の父)、高峰秀子、杉村春子、淡路恵子、有馬稲子、春川ますみ、叶順子、若尾文子、岸田今日子、古川緑波、淀川長治、浪花千栄子etc.と、圧倒的に映画女優が多く、谷崎好みのメンバーである。あとは歌舞伎役者など。
本書のクライマックスは、小山内薫、永井荷風、久保田万太郎らを囲んだ「『お国と五平』芝居合評会」だろう。これは是非ものの必読記事。谷崎の戯曲『お国と五平』を1922年7月、帝国劇場(東京・丸の内)で谷崎みずから演出を担当した上演に対し、みんなで寄ってたかってケナシまくるという、なんとも無残な記事なのである。谷崎がちょっとでも言い訳すると、小山内あたりが容赦なく「苦しい逃げ方をするな」と釘を刺す。
1897年の夏に尾上菊五郎、市川新蔵があいついで亡くなり、このふたつの葬列が共に人形町を通過して、本所押上の大雲寺に向かうのを、幼少期の谷崎が目撃しているという注釈が出ているのもすばらしい。谷崎は、人形町のしゃも鍋と親子丼で有名な「玉ひで」の数軒隣に生まれ育っている(「玉ひで」は現在でも昼になると親子丼目当ての行列ができるが、夜のしゃも鍋の方がオススメだ)。歌舞伎役者の葬列がわざわざ人形町を通ったのは、老舗の旦那衆や花柳界への挨拶まわりも兼ねてのことかと思われる。
徳川夢声との対談の中で谷崎が吐露する次のようなことばを、私は非常に気に入っている。曰く、「いま、顔が知れてるためにこまることもあるんだが、どうかすると、都合のいいこともあるんですよ。汽車なんぞ満員のときに、ちゃんと顔を知ってて、“どうぞこちらへ” と、ゆずってくれるときなんか、たいへんいい(笑)…ご老体だからいいこともありますよ。美人がのってきて、どこへすわろうかと迷ってね、老人のそばなら安心だというんで、ぼくのとなりへ腰かける(笑)」 夢声「実は安心じゃあない(笑)」
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