1995年ころ、フィルムアート社の『キネマの世紀』という本の解説文を手伝っていた時に、渋谷実の『気違い』(1957)のことがスタッフの間で話題に上り、「この映画、“気違い”も“”も放送禁止用語だから、テレビでは一言も題名を言えないじゃん」などと馬鹿話に花が咲いて、そんな会話を聞いていた私は、「いや、単語の意味が違うでしょう。“”って、放送禁止用語じゃないはずですよ」などときまじめに反論したのだが、同時に「なるほど、この映画を見られるのはいつのことやら」とも思った。かつて『気狂いピエロ』が『ピエロ・ル・フ』と原題をカタカナ表記にしてテレビ放送されて失笑を買ったが、この映画はそういう芸当さえ不可能だ。三軒茶屋スタジオamsが健在なら、遅かれ早かれ機会はあっただろうが…。
などとなめてかかっていたら、あれから十余年、このたびCSであっさり放送されてしまった(もちろんそのままのタイトルで)。しかも噂に違わぬ佳作であった。村八分だの、外しだのと前近代的な風習が残る寒村を舞台とする諷刺喜劇だが、駐在所の看板に「八王子警察署管轄」みたいな文字が見えて吹き出してしまった。これは一応、都内の物語なのだった。
村八分に遭った上に愛娘を亡くした伊藤雄之助はラストシーンで、もうこのを出た方がいいと忠告されるが、「ここを捨てても、日本中どこへ行ってもおんなじよ」と吐き捨てて断る。しかしこの台詞は、いまの私たちの社会にもそのまま当てはまる。
などとなめてかかっていたら、あれから十余年、このたびCSであっさり放送されてしまった(もちろんそのままのタイトルで)。しかも噂に違わぬ佳作であった。村八分だの、外しだのと前近代的な風習が残る寒村を舞台とする諷刺喜劇だが、駐在所の看板に「八王子警察署管轄」みたいな文字が見えて吹き出してしまった。これは一応、都内の物語なのだった。
村八分に遭った上に愛娘を亡くした伊藤雄之助はラストシーンで、もうこのを出た方がいいと忠告されるが、「ここを捨てても、日本中どこへ行ってもおんなじよ」と吐き捨てて断る。しかしこの台詞は、いまの私たちの社会にもそのまま当てはまる。