荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『気違い部落』 渋谷実

2009-02-25 12:02:00 | 映画
 1995年ころ、フィルムアート社の『キネマの世紀』という本の解説文を手伝っていた時に、渋谷実の『気違い』(1957)のことがスタッフの間で話題に上り、「この映画、“気違い”も“”も放送禁止用語だから、テレビでは一言も題名を言えないじゃん」などと馬鹿話に花が咲いて、そんな会話を聞いていた私は、「いや、単語の意味が違うでしょう。“”って、放送禁止用語じゃないはずですよ」などときまじめに反論したのだが、同時に「なるほど、この映画を見られるのはいつのことやら」とも思った。かつて『気狂いピエロ』が『ピエロ・ル・フ』と原題をカタカナ表記にしてテレビ放送されて失笑を買ったが、この映画はそういう芸当さえ不可能だ。三軒茶屋スタジオamsが健在なら、遅かれ早かれ機会はあっただろうが…。

 などとなめてかかっていたら、あれから十余年、このたびCSであっさり放送されてしまった(もちろんそのままのタイトルで)。しかも噂に違わぬ佳作であった。村八分だの、外しだのと前近代的な風習が残る寒村を舞台とする諷刺喜劇だが、駐在所の看板に「八王子警察署管轄」みたいな文字が見えて吹き出してしまった。これは一応、都内の物語なのだった。

 村八分に遭った上に愛娘を亡くした伊藤雄之助はラストシーンで、もうこのを出た方がいいと忠告されるが、「ここを捨てても、日本中どこへ行ってもおんなじよ」と吐き捨てて断る。しかしこの台詞は、いまの私たちの社会にもそのまま当てはまる。

NHKドラマ『お買い物』

2009-02-22 01:32:00 | ラジオ・テレビ
 NHK総合で『特集ドラマ お買い物』というのを見て、これがちょっと面白かった。作・前田司郎、演出・中島由貴による単発ドラマで、中古カメラ市のDMを見た爺さん婆さんが、福島の田舎から数十年ぶりに上京して、Contax IIaを購入する、というだけの物語だ。ミニマル化された『東京物語』というか、そういうのは大抵ダメなものだが、本作は些末な事象を拾い上げて、生のありようにまで想像力を拡大させている。
 「俺たち、あそこに立ってたな」「え?」「前にふたりで来たとき、俺たちあそこに立ってたな」「本当だ、あそこにふたりで立ってましたねえ」「うん」「途方に暮れて、ふたりで」「うん」…というような、本来ならもう勘弁してほしい台詞のやり取りであるはずなのに、今回は実に豊穣な響きとして受け取ることができた。老夫婦は久米明と渡辺美佐子、彼らを一泊させてやる孫娘を市川実日子が演じている。

『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』 デヴィッド・フィンチャー

2009-02-16 03:26:00 | 映画
 『感染列島』であるとか『ノン子36歳(家事手伝い)』であるとか『20世紀少年 第2章 最後の希望』であるとか、ここ2~3週間の間に見た日本映画はどれも歯応えというものがなく、記事に書き残しておこうとまでは思わないのだが、その代わりに、先日アテネ・フランセで開催されたフセヴォロド・プドフキン映画祭では、『母』(1926)以外のプドフキンの諸作も遅まきながら見ることができて、本当によかった。無声映画の名匠が1950年代に撮りあげた晩年のカラー作品『ワシーリー・ボルトニコフの帰還』(1952)などに接すると、それが初期ほどの出来ではないとしても、つい映画そのものを力強く肯定したくなる。

 そして今夜は『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』を見る。アメリカ20世紀史を、人生を逆行する男(ブラッド・ピット)の日記を通して大掴みに描写していくメロドラマだが、男女が深夜のひとけのないホテルロビーで密会する場面や、家督を継いだ主人公が一人ヨットで海に出る場面、主人公の恋人(ケイト・ブランシェット)が夜の公園でバレエを踊り出す場面、捨て子だった主人公を育ててくれた黒人女性(タラジ・P・ヘンソン)の母性溢れる丸顔などに、なんとも言えない映画的な叙情が感じられた(映画的という言葉を久しぶりに使ってしまったが)。
 フィンチャーとしては前作『ゾディアック』(2007)ほどの凄みはないかもしれないが、それでも冒頭に挙げた諸作より数倍は見応えがある。


丸の内ピカデリーなど、全国で上映中
http://wwws.warnerbros.co.jp/benjaminbutton/

陶をもって政をみる

2009-02-14 05:30:00 | アート
 2月9日付の新聞各紙で、台北の故宮博物院が北京の紫禁城にある故宮博物院と、1949年の中台分断以来、初めて本格交流に乗り出す、と報じられている。両故宮の存在は、それぞれの政体の正統性の象徴でもあったわけだから、これは画期的な提携だといえる。

 むかしから中国には、「陶をもって政をみる」という有名な言葉がある。陶磁器の出来具合を見れば、それが製作された時期が爛熟しているのか頽廃しているのか、まつりごとが安定しているのか乱世にあるのかが分かるということであり、つまりやきものの色、貫入、形、大きさ、文様等は、ときの政治状況の表象なのである。

 陶磁は、上流階級の愛玩物であると同時にインテリアであり、ヨーロッパ、中近東、朝鮮、日本等の王族・貴族・僧侶への最重要輸出品目であり、また市井の民の単なる生活雑器でもあったが、あらゆる芸術ジャンルの中で、青銅器に次いで重要なものであった。私は以前に2度、台北の故宮を訪れて、研ぎ澄まされた陶磁の展示に目を見張った。特に、2度目に訪れたときに開催されていた《北宋大観》における「汝窯」の展示は、わが生涯で1度、いや歴史上で1度だけの貴重な体験となった。

 しかし北京の故宮には1度も行ったことがない。理由は簡単で、国民党政府が国共内戦末期に紫禁城から、精選された極上のものを持ってきてしまったからである。保管点数では圧倒的に北京優位だが、最高の作品は台北に集まっており、世の美術ファンはみんな台北を選んでしまう。
 これは中国側としては具合が悪かったのだろう。中台緊張緩和の第1オプションとして、両故宮の本格交流が推進・画策されたのではないか。翻っていえば、大陸側の成長に伴い、経済的・テクノロジー的なプレゼンスを失いつつある台湾は、軍事的、領土的によりも先に、まず美学的な側面から懐柔され、武装解除されつつあるのではないか。まさに「陶をもって政をみる」である。

イプセン作『ちっちゃなエイヨルフ』

2009-02-12 00:34:00 | 演劇
 ヘンリック・イプセン作『ちっちゃなエイヨルフ』を、東池袋のあうるすぽっとで見る。朝倉摂による薄気味悪く巨大な円柱に囲まれた美術の中で、夫婦関係の欺瞞、罪深さがとどまることなくえぐられ、イプセンの精細緻密な心理劇が俳優たちの声と身体によって血の通ったものとなる。この戯曲は1895年に書かれたらしいが、精神的にはカサヴェテス以後の息吹がある。

 激烈な感情の爆発で支配されてはいても、謎めいた部分も多い本作は、音楽にJ.S.バッハの遺作にして未完の『フーガの技法』だけを使用している点も、謎めいたムードを助長させていた。この『フーガの技法』という曲は、終わり方、というか作曲家の死によって宙づりにされた最後の小節が物凄い曲で、いや曲というより、長大なパートの集成といった程度のものなのだが、譜面に楽器指定がされておらず、これまで数多くの奏者が思い思いの楽器で好き勝手に解釈し演奏してきたため、クラシック録音史上最も混乱したレコード・カタログを持つ。その精細緻密に研ぎ澄まされつつ、メランコリックにまどろんだような旋律と、この芝居は非常に合致していた。


2月15日(日)まで、東京・東池袋のあうるすぽっとで上演中
http://www.majorleague.co.jp/