荻野洋一 映画等覚書ブログ

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EURO 2008予選

2007-05-30 19:15:00 | サッカー
 今週はインターナショナルマッチ・ウィークのため、リーガは1週お休みとなる。その代わりに欧州各地で行われるEURO 2008予選は、6月2日にデンマークvsスウェーデン、フランスvsウクライナ、6月6日にクロアチアvsロシア、フランスvsグルジアといったところが拮抗した好ゲームを期待できそうである。

 特に、徐々に世代交代を計るフランスが楽しみ。トゥララン、ベンゼマ(以上リヨン)、ナスリ、リベリ(以上マルセイユ)、ブリアン(レンヌ)など、中盤から攻撃陣にかけて国内組に楽しみな若手が選出されている。
 ポスト・ジダン、ポスト・アンリ時代のフランスサッカーの青写真を、とにかく早くみたいものだ。

『バベル』 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

2007-05-30 03:25:00 | 映画
 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの新作『バベル』が、なかなかいい。「イニャリトゥ」というバスク的な響きに惹かれるが、メキシコ映画界にはバスク系が多いのだろうか、そのあたりの詳細はわからないが、中南米の映画が世界に打って出る時に纏いがちの独特かつ過剰な幻想主義(たとえばガルシア=マルケス原作の『エレンディラ』など)から、この作品はいっさい無縁であり、可能な限りコスモポリタン的であろうとする作者の心情は痛いほど理解できる。

 モロッコの砂漠地帯、メキシコの対米国国境都市、そして東京の渋谷区から港区界隈という3地区が主なロケ地となっているが、それでもやはり、作者の地元だからか、メキシコでの一連のシーンが最も生気に富んで見応えがある。

 殊に、米国側サンディエゴ市内の白人家庭の乳母を永年勤めたメキシコ人女性が、家族の暮らすメキシコ国内に越境して、一人息子の婚礼に出席するくだりの、生き生きとした描写はどうだろう。
 翌朝から始まってしまう、来たるべき悲劇の前兆をわずかに感じさせつつ、一時的な幸福に身を浸らせる婚礼出席者たちの姿に、不覚にも涙を浮かべてしまった。

日比谷スカラ座、渋東シネタワー他でロードショー中
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加藤善博 追悼

2007-05-29 03:49:00 | 映画
 友人Hからのeメールで、訃報を知る。俳優・加藤善博、死去。自殺ということだが、その死は新聞報道さえされていないため、詳細は不明。

 加藤善博といえば、何といっても森田芳光監督『家族ゲーム』(1983)での主人公の(宮川一朗太)の担任役がまず思い出される。家庭教師(松田優作)が学校に面会に来ると、弁当を食べる手を生徒のように上げて「ハーイ」と気のない返事をする陰険教師を演じていた。それ以外の多くの森田芳光作品の常連、そして『お葬式』(1984)『タンポポ』(1985)など伊丹十三作品の常連となったほか、松田優作監督『ア・ホーマンス』(1986)、中原俊監督『12人の優しい日本人』(1991)など。斉藤信幸『母娘監禁 牝』(1987)では主演もしている。
 また僕と縁深いところでは、知人である鎮西尚一監督の『パンツの穴 キラキラ星みつけた』(1990)でも、浅野忠信(当時、中学生役!)の担任役だった。しかし、残念ながら最近は、どんな活動をしていたのかわからない。

 じつは僕は、加藤善博と「共演」している。といっても、こちらはあくまでエキストラだが。学校のOB山川直人の商業映画デビュー作『ビリィ★ザ★ギッドの新しい夜明け 』の撮影に、新入生だった僕は毎日のようにエキストラに駆り出され、言われるがまま、祖師ヶ谷大蔵の国際放映スタジオに早朝から日参していた。この作品で加藤善博は、米兵の軍服を着てタバコを吹かし、主人公ビリー・ザ・キッド(三上博史)と共に、ラストの銃撃戦で機関銃を撃ちまくっていた。この撮影現場での加藤善博の傍若無人な、眼をギラギラさせたたたずまい、そして大声を張り上げての演技は、いまでもはっきりと印象深く記憶に刻まれている。
 またこの作品は、僕自身の少年期の面影を世に残す唯一の映像であり、エキストラというにしては結構多くのカットで登場しているのである(まあそんなことは、世間ではどうでもいいことではあるが)。

 ZARDの坂井泉水氏や松岡農水相など、訃報が続いた日だったが、加藤善博死すの知らせはとりわけ衝撃的であった。
 生前の活躍にひたすら思いを馳せ、冥福を祈るばかりである。

東浩紀vs.仲俣暁生(新潮6月号)

2007-05-27 01:59:00 | 
 東浩紀×仲俣暁生の対談『工学化する都市・生・文化』(新潮6月号)はじつに面白く読める。下北沢や中央線沿線のような猥雑な街路から派生する文化空間は、もはやノスタルジーによるテーマパークに過ぎず、郊外型のショッピングモールにこそ未来のリアリティがある、ということを繰り返す東浩紀の強弁に、仲俣暁生がなんとか反論しようとしてもがき苦しむ、という構図。はっきり言って、東浩紀の強弁が圧倒的に優勢であるかのように読める。

 とはいえ、仲俣暁生のおそるおそるの反論に、ほとんどの読み手は共感したであろうことは間違いあるまい。僕も仲俣を応援した。
 それにしても、いまの下北沢がノスタルジーのテーマパークに過ぎない、みたいな議論はいくらなんでも言い過ぎだし(僕自身は下北沢に大して思い入れはないが)、「あなたゼネコンから宣伝費もらっているの?」と訊きたくなるし、逆に、この反動ぶりはマージンをもらっていて欲しいくらいである。
 東浩紀がなぜここまでゼネコン主導の再開発を擁護し、郊外型ショッピングモールを、ケータイ小説やゲーム、キャラクタービジネスとからめて擁護するのか、よく理解できた。これは広義の純文学批判であり、ハイカルチャー批判である。いわば、「ヨーロッパの芸術映画」の価値を失墜させるための方便として『スターシップ・トゥルーパーズ』あたりがやたらともてはやされた時代があった(俗称「バー方便」)が、ああいう方向性を思い出させる。

 とはいえ、みんな結局、自分がいま居住する地区を正当化したいだけなのではないか。五十嵐太郎の幕張新都心を擁護する筆致に対しても、東浩紀の強弁に対しても、つい、必死だなとつぶやきたくなってしまう。ただ単にお国自慢、地元自慢でいい程度のお題目なのに、不自然なまでに議論が先鋭化している。

岡部嶺男、初の作品集

2007-05-26 05:28:00 | アート
 岡部嶺男初の作品集『陶愁』がついに出版された(小学館)。

 気品、技術、造形、そしてオリジナリティはもちろん、陶磁を批評するにあたって最も尊ばれる、峻厳さという点でも他の追随を許さない地点まで到達した作家。岡部嶺男は、挑んだジャンルの幅広さだけでなく、「磁器の中の磁器」ともいえる「青瓷」において現代陶芸の頂点に立った人だ。

 そんな偉大な人なのに、展覧会のカタログをのぞいて、作品集の出版はこれが初である。遺族の全面協力によって完成されたこの大部の本は4万7250円と、ちと値が張るが、造形芸術を愛する者にとって、バイブルのごとき価値を半永久的に持つことになるだろう。