先日、友人Hから郵便が来て、慶応大学院社会学研究科の紀要に中原逸郎氏の「花街の芸の再創造──京都上七軒における石田民三の寄与を中心に──」という論文が出ていたとコピーを送ってくれた。前に拙ブログで、石田民三が序文を書いた「さのさ節」の歌詞集成本について触れたり、『夜の鳩』(1937)の竹久千恵子を激賛したのを覚えてくれての厚意であろう。
戦前こそ初期東宝の銀幕を妖しく彩った石田民三の情感に満ちた映画群であるが、戦後は吉本興業がプロデュースした『縁は異なもの』(1947)以外はぱったりと監督作が途絶えたと思ったら、京都五花街のひとつ上七軒でお茶屋の主人に収まって、その地で四半世紀におよぶ長い長い晩年を全うしたのである。
今回の中原氏の論文を読むと、上七軒の芸妓・舞妓をあつめ、北野天満宮の奉納行事として1952年に始まった「北野をどり」が、じつは「元映画監督」石田民三の指導・演出のもとに実現し、毎春の恒例行事としてさまざまに趣向を凝らし、改良を重ねて今日の「北野をどり」へと発展していったことが詳しくわかる。創始して20年後、石田は1972年春の「北野をどり」演出を病のために辞退し、上七軒の芸の行く末を最後まで案じていたそうである(その年の秋に永眠 1901-1972)。
石田の考案した「北野をどり」の演目は、たとえば同じ京都・祇園の「都をどり」や東京・新橋の「東をどり」とはちがって、立方と地方が日頃の鍛錬をオーセンティックに発表する場ではなく、戯曲があり、セリフがあり、役柄がある。言わば和風レビューの観を呈しており(時には、芸妓がフランス人形の衣裳をつけて踊る、宝塚顔負けの年もあったらしい)、京都の通人たちのあいだでは、親しみの情といささかの揶揄をこめて「北野歌舞伎」と仇名されていた。戦前あれほど若き名匠の名をほしいままにした人が、戦後はお茶屋の主人として無為に老いさらばえる図には、非常なる侘びしさを覚えていたが、これはどうやら余計なお世話だったようだ。
石田が没して2年後の1974年には、京橋フィルムセンターで清水宏とのカップリングでレトロスペクティヴが開催されている。しかし今になって、アカデミズムからこうした論文が登場するというのは、真に石田再評価がなされるのはこれからということを、証拠立てているようにも思える。
存命者で映画監督としての石田を知る最後の人は、おそらく女優の加藤治子ではないか。彼女は16歳のとき「御舟京子」の芸名をもって、石田の代表作のひとつ『花つみ日記』(1939)の高峰秀子のクラスメイト役でスクリーン・デビューを果たしている。加藤治子が元気なうちに誰かが彼女に訊いて、石田についての思い出を語ってもらうべきだろう。
戦前こそ初期東宝の銀幕を妖しく彩った石田民三の情感に満ちた映画群であるが、戦後は吉本興業がプロデュースした『縁は異なもの』(1947)以外はぱったりと監督作が途絶えたと思ったら、京都五花街のひとつ上七軒でお茶屋の主人に収まって、その地で四半世紀におよぶ長い長い晩年を全うしたのである。
今回の中原氏の論文を読むと、上七軒の芸妓・舞妓をあつめ、北野天満宮の奉納行事として1952年に始まった「北野をどり」が、じつは「元映画監督」石田民三の指導・演出のもとに実現し、毎春の恒例行事としてさまざまに趣向を凝らし、改良を重ねて今日の「北野をどり」へと発展していったことが詳しくわかる。創始して20年後、石田は1972年春の「北野をどり」演出を病のために辞退し、上七軒の芸の行く末を最後まで案じていたそうである(その年の秋に永眠 1901-1972)。
石田の考案した「北野をどり」の演目は、たとえば同じ京都・祇園の「都をどり」や東京・新橋の「東をどり」とはちがって、立方と地方が日頃の鍛錬をオーセンティックに発表する場ではなく、戯曲があり、セリフがあり、役柄がある。言わば和風レビューの観を呈しており(時には、芸妓がフランス人形の衣裳をつけて踊る、宝塚顔負けの年もあったらしい)、京都の通人たちのあいだでは、親しみの情といささかの揶揄をこめて「北野歌舞伎」と仇名されていた。戦前あれほど若き名匠の名をほしいままにした人が、戦後はお茶屋の主人として無為に老いさらばえる図には、非常なる侘びしさを覚えていたが、これはどうやら余計なお世話だったようだ。
石田が没して2年後の1974年には、京橋フィルムセンターで清水宏とのカップリングでレトロスペクティヴが開催されている。しかし今になって、アカデミズムからこうした論文が登場するというのは、真に石田再評価がなされるのはこれからということを、証拠立てているようにも思える。
存命者で映画監督としての石田を知る最後の人は、おそらく女優の加藤治子ではないか。彼女は16歳のとき「御舟京子」の芸名をもって、石田の代表作のひとつ『花つみ日記』(1939)の高峰秀子のクラスメイト役でスクリーン・デビューを果たしている。加藤治子が元気なうちに誰かが彼女に訊いて、石田についての思い出を語ってもらうべきだろう。