猛暑の盛りの8月はじめ。赤瀬川原平が仲間の南伸坊、山下裕二と3人でトークショーをやると聞いて、会場の東博・平成館の講堂へ汗びっしょりとなりながら辿りつき、整理券をもらった。この3人が東博の行事に出るのは初めてらしい。
トークショーはなかなか始まらなかった。東博のスタッフがマイクを取り、「出演者が渋滞に巻き込まれ遅刻している」と伝えた。けしからん、こっちはそれなりに早起きして地下鉄と徒歩で汗だくとなって上野公園の最奥までやって来たのだ。
出演者が壇に現れたとき、びっくりした。赤瀬川原平が車椅子なのである。山下が自家用車で例の玉川「ニラ・ハウス」に迎えに行き、赤瀬川を乗せてから上野に急いだが遅れてしまったのだという。これではしかたがない。赤瀬川は、車椅子で初めて人前に出て、「心細さでオロオロしている」と開口一番述べていた。
その赤瀬川の新著が『「墓活」論』(PHP研究所 刊)である。近年は「就活」「婚活」「妊活」といった単語が便利に使われている。「離活」なんて言葉まであるそうだ。その延長線上で赤瀬川あたりの人が「墓活」と言い始めてもなんの不思議もない。「逝くまえに、入るお墓をつくりたい」なんてのんきに五・七・五で帯の惹句に書くあたり、面目躍如である。
ほとんどの人は自分の生活の流れの中で、「墓活」をまだ意識していないと思う。だが私は、以前にも書いたやもしれぬ私事であるが、数年前に「墓活」を完了した身の上である。母と折半で東京・新宿の某寺に墓をすでに建てた。荻野の本家が江戸時代からずっとこの寺の檀家であったため、現在の一族の長である伯母に口をきいてもらったのだ。ゴールデン街からも伊勢丹からも至近。法事の食事会を「小笠原伯爵邸」でおこなうといったイヤらしい芸当も可能だ。前回の法事では、その伯母らと共に「全聚徳」で北京ダックにかぶりついた。人間より墓の方がいい所にいると言っていい。しかしこの「墓活」には、口には出せないさまざまな気苦労があったし、心身共に疲弊したのも事実だ。
赤瀬川は以前に一度、郊外の霊園に墓を買ったそうだが、墓参りに訪れるためのモチベーションとなるような面白いオプションに欠け、風情ある土地柄でないことをつまらなく思い、小林秀雄や鈴木大拙も眠る東慶寺という北鎌倉の名刹にあらたに墓を建てた。この時のお引っ越し経験をもとに本書は書かれている。
その根底で、残りの人生のはかなさであるとか、いきがって自由人ぶっている人たちもいずれは肉親の死に直面すると、通りいっぺんの葬儀、埋葬を経験せざるを得ない現実であるとかを、照れまじりに、独特の力みのなさで、舌鋒鋭く突いている。私は、分かりすぎるくらいに分かりますという心持ち(偉そうだけど)で、本書を猛スピードで読了した。
トークショーはなかなか始まらなかった。東博のスタッフがマイクを取り、「出演者が渋滞に巻き込まれ遅刻している」と伝えた。けしからん、こっちはそれなりに早起きして地下鉄と徒歩で汗だくとなって上野公園の最奥までやって来たのだ。
出演者が壇に現れたとき、びっくりした。赤瀬川原平が車椅子なのである。山下が自家用車で例の玉川「ニラ・ハウス」に迎えに行き、赤瀬川を乗せてから上野に急いだが遅れてしまったのだという。これではしかたがない。赤瀬川は、車椅子で初めて人前に出て、「心細さでオロオロしている」と開口一番述べていた。
その赤瀬川の新著が『「墓活」論』(PHP研究所 刊)である。近年は「就活」「婚活」「妊活」といった単語が便利に使われている。「離活」なんて言葉まであるそうだ。その延長線上で赤瀬川あたりの人が「墓活」と言い始めてもなんの不思議もない。「逝くまえに、入るお墓をつくりたい」なんてのんきに五・七・五で帯の惹句に書くあたり、面目躍如である。
ほとんどの人は自分の生活の流れの中で、「墓活」をまだ意識していないと思う。だが私は、以前にも書いたやもしれぬ私事であるが、数年前に「墓活」を完了した身の上である。母と折半で東京・新宿の某寺に墓をすでに建てた。荻野の本家が江戸時代からずっとこの寺の檀家であったため、現在の一族の長である伯母に口をきいてもらったのだ。ゴールデン街からも伊勢丹からも至近。法事の食事会を「小笠原伯爵邸」でおこなうといったイヤらしい芸当も可能だ。前回の法事では、その伯母らと共に「全聚徳」で北京ダックにかぶりついた。人間より墓の方がいい所にいると言っていい。しかしこの「墓活」には、口には出せないさまざまな気苦労があったし、心身共に疲弊したのも事実だ。
赤瀬川は以前に一度、郊外の霊園に墓を買ったそうだが、墓参りに訪れるためのモチベーションとなるような面白いオプションに欠け、風情ある土地柄でないことをつまらなく思い、小林秀雄や鈴木大拙も眠る東慶寺という北鎌倉の名刹にあらたに墓を建てた。この時のお引っ越し経験をもとに本書は書かれている。
その根底で、残りの人生のはかなさであるとか、いきがって自由人ぶっている人たちもいずれは肉親の死に直面すると、通りいっぺんの葬儀、埋葬を経験せざるを得ない現実であるとかを、照れまじりに、独特の力みのなさで、舌鋒鋭く突いている。私は、分かりすぎるくらいに分かりますという心持ち(偉そうだけど)で、本書を猛スピードで読了した。