荻野洋一 映画等覚書ブログ

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赤瀬川原平 著『「墓活」論』をめぐる私事も交えた感慨

2012-10-31 01:16:53 | 
 猛暑の盛りの8月はじめ。赤瀬川原平が仲間の南伸坊、山下裕二と3人でトークショーをやると聞いて、会場の東博・平成館の講堂へ汗びっしょりとなりながら辿りつき、整理券をもらった。この3人が東博の行事に出るのは初めてらしい。
 トークショーはなかなか始まらなかった。東博のスタッフがマイクを取り、「出演者が渋滞に巻き込まれ遅刻している」と伝えた。けしからん、こっちはそれなりに早起きして地下鉄と徒歩で汗だくとなって上野公園の最奥までやって来たのだ。
 出演者が壇に現れたとき、びっくりした。赤瀬川原平が車椅子なのである。山下が自家用車で例の玉川「ニラ・ハウス」に迎えに行き、赤瀬川を乗せてから上野に急いだが遅れてしまったのだという。これではしかたがない。赤瀬川は、車椅子で初めて人前に出て、「心細さでオロオロしている」と開口一番述べていた。

 その赤瀬川の新著が『「墓活」論』(PHP研究所 刊)である。近年は「就活」「婚活」「妊活」といった単語が便利に使われている。「離活」なんて言葉まであるそうだ。その延長線上で赤瀬川あたりの人が「墓活」と言い始めてもなんの不思議もない。「逝くまえに、入るお墓をつくりたい」なんてのんきに五・七・五で帯の惹句に書くあたり、面目躍如である。

 ほとんどの人は自分の生活の流れの中で、「墓活」をまだ意識していないと思う。だが私は、以前にも書いたやもしれぬ私事であるが、数年前に「墓活」を完了した身の上である。母と折半で東京・新宿の某寺に墓をすでに建てた。荻野の本家が江戸時代からずっとこの寺の檀家であったため、現在の一族の長である伯母に口をきいてもらったのだ。ゴールデン街からも伊勢丹からも至近。法事の食事会を「小笠原伯爵邸」でおこなうといったイヤらしい芸当も可能だ。前回の法事では、その伯母らと共に「全聚徳」で北京ダックにかぶりついた。人間より墓の方がいい所にいると言っていい。しかしこの「墓活」には、口には出せないさまざまな気苦労があったし、心身共に疲弊したのも事実だ。
 赤瀬川は以前に一度、郊外の霊園に墓を買ったそうだが、墓参りに訪れるためのモチベーションとなるような面白いオプションに欠け、風情ある土地柄でないことをつまらなく思い、小林秀雄や鈴木大拙も眠る東慶寺という北鎌倉の名刹にあらたに墓を建てた。この時のお引っ越し経験をもとに本書は書かれている。
 その根底で、残りの人生のはかなさであるとか、いきがって自由人ぶっている人たちもいずれは肉親の死に直面すると、通りいっぺんの葬儀、埋葬を経験せざるを得ない現実であるとかを、照れまじりに、独特の力みのなさで、舌鋒鋭く突いている。私は、分かりすぎるくらいに分かりますという心持ち(偉そうだけど)で、本書を猛スピードで読了した。

『5月の後』 オリヴィエ・アサイヤス

2012-10-28 10:12:59 | 映画
 先ごろ邦訳が刊行されたばかりの自伝的エッセー『5月の後の青春』(彦江智弘訳 boid刊)が白い紙と黒いインクによる素描なのだとすれば、同じ作者による新作映画『5月の後』は熱に浮かされた暖色の油彩を、いや炎の彩色を画布の上に乗せていくタブローだ。事実、この映画の作者たるオリヴィエ・アサイヤスの分身であることが明らかな主人公の高校生(クレモン・メタイェル)は、2人の少女のあいだでみずからの身体と心を遍歴させながら、画用紙の上にいくつかの水彩をのせ、ギグの照明効果をつくり出すためにプレパラートの上にさまざまな色の塗料を楽しそうにのせていく。
 ここでは、ゴダールとは別の意味で「2つの戦線」が戦われている。右手で放火材を工場の監視小屋に投げつけ、左手ではおもむろに絵筆を握ってみせる。いや、注意深い観客は気づいただろう。主人公は右手でも左手でも気ままに絵筆を握って、画用紙の上に絵の具をのせていたことを。そしてその戦線は現在もなお、不安定なままだ。

 本作の準備的な素描『冷たい水』を見たのは1994年、東京国際映画祭が平安遷都1200年祭を記念し一度だけ「京都大会」として開催された際の、祇園会館のスクリーンである。アサイヤスは同館の映写室で機材を必死に調整しながらも音響環境にずいぶんと不満を残したようだった。私は見終わったあと、四条通、河原町通と歩き、作家の宿泊先だった京都ホテル(現・オークラ)のロビーで坂本安美によるインタビューにくっついて、何枚かの出来の悪いアサイヤスの肖像写真を撮った。結局このスチールは雑誌で使わなかったような気がする。
 遷都1200年祭、つまり「鳴くよ鶯、平安京」+1200=1994年の秋。私はまだ恥ずかしながら20代の青春(?)を生きていた。光陰矢のごとし、あれから18年の歳月が流れたのだ。


東京国際映画祭〈WORLD CINEMA〉部門で上映
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『ある学生』 ダルジャン・オミルバエフ

2012-10-26 03:17:15 | 映画
 ミア・ハンセン=ラヴの『あの夏の子供たち』(2010)の中で、自殺する主人公の映画プロデューサーがプロデュースしたという設定で引用されていたのが、カザフスタンの実在する映画『ショーガ』(2007)だった。この作品の監督役で出演していたのがタジキスタン人の映画作家ジャムシェド・ウスモノフだったが(同じ中央アジアというくくりだろう)、『ショーガ』は彼の作品ではなく、カザフの映画作家ダルジャン・オミルバエフの作品である。
 そのオミルバエフの新作『ある学生』は、ドストエフスキー『罪と罰』(1866)を現代のカザフスタンに翻案。当然、主人公の大学生は原作同様、鬱屈した生の帰結として凶暴な犯行を思いついてしまう。主人公の鬱屈のかたわらに観客は身を置きつつ、その視線の先にあるのは、最大都市アルマトイのひんやりとして乾いた、それでいて木々があざやかに緑の反射光を放つ街路の大気である。ただ、どこか別の国でドストエフスキーを映画化するのとちがって、親ロシアのこの国でやるとなると、かなり政治的なバイアスがかかってくるし、ポスト・モダニズムについての本作の扱いは、基本的な誤解に基づいてもいる。
 私にとってカザフ人というのは、秦漢時代のいわゆる「北狄」、つまり匈奴、大月氏などといった勇猛なる遊牧民族の末裔だろうという程度の失礼な認識をもつのみだった。そうした勇猛さはこの映画で見るかぎり、都市定住者からはまったく感じられない(主人公に殺害される食料品店のオヤジが梅宮辰夫そっくりで、やや「匈奴」の匂いが感じられる。もっとも匈奴の顔は見たことがないけれど)。かつての渋谷系のような、色白で細おもてな草食系男子と黒レギンスの脚線美が自慢の女子が跳梁跋扈する、じつに極東的なプラスティック・ラヴである。主人公の大学生が思慕をよせる詩人の長女も、大学入試のために田舎から出てくる主人公の妹も、極東風の女子という出で立ちだった。母親のインパクトもすごい。


東京国際映画祭《アジアの風 中東パノラマ》部門で上映
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『リアリティー』 マッテオ・ガローネ

2012-10-25 00:06:52 | 映画
 あの鮮烈極まりない『ゴモラ』(2008)が日本公開されて1年足らず、あんな映画を作って、よくもまぁカモッラの一群に暗殺されないものだと妙な感心をしてしまった。ところがどうしたことだろう。映画作家とはペテン師の別名なのだろうか。ここまで極端に作風を変えて、マッテオ・ガッローネの新作が東京で上映された。
 ナポリの少しばかり芸達者な魚売りの男(アニエッロ・アレーナ)が市内のショッピングモールで開催されたリアリティーショーのオーディションを受け、なまじ手応えがよかったことから自信過剰となり、それが原因であっという間に身上つぶすという教訓譚的トラジコメディである。「この中途半端なフェリーニ感、煮え切らない祝祭感覚」(by 大寺眞輔)とはよく言ったもので、同じような感想が画面を見ながら頭の中を駆けめぐった。
 ファンタスムが一人歩きし、出会う人出会う人がいずれも画面に対して媚態のポーズを取ってみせるかのごときフェリーニ的なイタリア映画の伝統に連なりつつ、ガッローネがやっておきたかったのはいったい何だったのだろうか。
 たぶんそれはナポリの市井の人々──マフィアやカモッラの生態でもなく、『イタリア旅行』のツーリストの逡巡でもない──の陽気さの影にある鬱屈、ピアッツァ(広場)の片隅に見え隠れする孤独、そんなささいなものの現前だったのではないか。空撮による俯瞰で始まり、空撮の俯瞰で終わる本作は、チネチッタ(ローマの撮影所 =「シネ・シティ」)に頭を垂れつつ、それでも南部の人間がローマやミラノに譲ろうとしない意気地のようなもの、それが絶えず写りつづけている。

P.S.
 ところで、どうでもいいかもしれない件をひとつ。Garroneのカタカナ表記は、『ゴモラ』公開時では「ガッローネ」だったにもかかわらず今回のTIFFで「ガローネ」となってしまったが、これは従来の「ガッローネ」に戻したいところだ(FORVOでネイティヴの発音が聴けます)。イタリア語にはラテン語由来の「二重子音」という決めごとがあるから。例)Balotelli バロテッリ、Buffon ブッフォン、Spaghetti スパゲッティ、Focaccia フォカッチャ


東京国際映画祭〈WORLD CINEMA〉部門で上映
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『鍵泥棒のメソッド』 内田けんじ

2012-10-24 03:32:07 | 映画
 『ディア・ドクター』や『夢売るふたり』が、自分以外の誰かになりすました者の行動を映像に収めたまではいいが、そこから急ブレーキをかけて、そうした人間が抱えている良心の呵責の方へとピントを合わせていってしまうのは、あまりにも無念である。どうして、なりすます者は最後までなりすますことを許されないのか? その根底には、去勢への無意識的欲動が働いているのではないかと私は推測する。
 「なりすます」ということだけを唯一の主題にもってきた『鍵泥棒のメソッド』は、映画としての出来を考えた場合はさほど印象に残らない作品かもしれない。だが、登場する人物たちのことごとくが良心の呵責とは無縁の「なりすまし」、あるいは変装者の逃走線だけを引いている点では言及に値する部分を持っている。
 題名のうちの「メソッド」とはずばり「メソッド演技法」のことを指す。なりすまされた「殺し屋」(香川照之)が売れない「俳優」の身に転落したあげく、「殺し屋」になりすました側の自称「俳優」(堺雅人)に次のように吐き捨てる。「お前の部屋にあったリー・ストラスバーグの著書、あれを読ませてもらったが、8ページまでしか読んだ形跡がなかったぞ。いるんだよ、ああいう難しい本を、買っただけで自己満足する俗物が」。
 つねに自分自身であろうとし、また自分自身以外になる資質をまったく持たない(つまりぐうたらということだ)「俳優」と、自分自身以外のあらゆる者になるために努力を惜しまない「殺し屋」。この二者の(立場の交換によって生じる)相克が、ドラマを推進する。その果てに到達するのは、すべての人にとってすべての生はつねに擬態でしかない、という明るいニヒリズムである。これを、大都会の片隅でひっそりと展開する一篇のコメディに仕立てようとした作者たちの挑戦は、私の心にはちゃんと届いた。


有楽町スバル座、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国で上映中
http://kagidoro.com