荻野洋一 映画等覚書ブログ

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内藤礼の作品 を見ること/から見られること について

2014-12-31 03:21:04 | アート
 東京都庭園美術館(東京・白金台)のリニューアルオープンで開催された《アーキテクツ/1933/shirokane アール・デコ建築をみる》および同時開催の《内藤礼 信の感情》が見る者にもたらす透徹した、そして何にも代えがたい五感のざわめきを、どのように表現したらいいだろう?
 旧・朝香宮邸をつかった本美術館は、以前からすばらしい佇まいを見せていた。東京都心にあって、通用門から数分のあいだ木々を眺めながら玄関まで歩くあのストロークから、すでに美術が始まっている。そして、旧皇族がじっさいに生活したこのアール・デコ建築は展示品と同等の美を放っていたものだ。その旧・朝香宮邸=庭園美術館がこのたび念入りな改修工事を終え、1933年の竣工時のきらびやかさが甦ったとのこと。あたらしくできた新館の視聴覚コーナーでは、その補修工事のドキュメント映像が見られる。今回の展観を訪れる鑑賞者の9割方は、このアーキテクチャーを見に来たのだろう。しかし、内藤礼がこの建物に棲んでいる美の守護神を追慕しながらも、挑発する、一見ミニマルアートと言っても間違いない展示作品(それはあまりにも小さく、旧皇族の生活空間の片隅に、ふっと継起してくる)のありように、よりいっそうの魅力を感じる人も少なくないはずである。
 瀬戸内海・直島の「家プロジェクト・きんざ」、同じく瀬戸内海・豊島の豊島美術館のたったひとつの作品「母型」など、内藤礼の作品は、作品としてそこにありながら、そのときそこでその作品と対峙する鑑賞者の生にしずかにアクセスしようとする。初期の代表作のタイトル「地上にひとつの場所を」からその作用ははっきりしていた。思えば、「地上にひとつの場所を」とはJ-L.ゴダール『右側に気をつけろ』でくり返し現れるタイポグラフィそのものである(Une place | sur la terre)。内藤礼がゴダールを参考にしたかどうかは知らない。しかしその意図は遠いものではない。
 そのことは作家自身がインタビューで述べている下記の言葉からあきらかであろう。
「『見る』ことは『認める』ことでもあり、それはまた、『それはそれであると思う』ことだと思うのです。『それはそれであると思わないのではない』のです。私の『見る』働きかけと、対象からの『見る」働きかけが同時にあり、互いに『見られている』と感じたとき、自他の区別がなくなり、強い肯定感に包まれたことがあります」(東京都庭園美術館HPより)


東京都庭園美術館(東京・白金台)にて12/25(木)で会期終了
http://www.teien-art-museum.ne.jp

東出昌大が高校生を演じつづけることについて

2014-12-27 08:05:19 | 映画
 NHK朝ドラ『ごちそうさん』で共演した杏と東出昌大が、年あけて元日に入籍することを発表した。ドラマ内でも「長身夫婦」として共演し、お似合いのカップルだと思う。

 ところで、結婚報道では杏28歳、東出26歳と出ていて、改めて吃驚させられた。というのも、東出昌大という俳優は、『桐島部活やめるんだってよ』『アオハライド』といった近作で高校生を演じているのである。『桐島~』の時点ですでに24歳(本稿では撮影時の年令は不詳なので、すべて公開時に統一 請了承)、現在公開中の『アオハライド』では26歳。つまり、アラサーではないか。アラサーの男が高校生役というのはさすがにどうかと思うし、実際『アオハライド』では違和感は拭えなかった。
 同作でヒロインを演じた本田翼も22歳、東出をめぐって本田と恋敵となる高畑充希も23歳。全体の平均年令があきらかに年齢詐称の気配を漂わせ、どうも作品全体が妙なことになっているのである。この作品の原作のことをまったく知らない私のような観客がまず考えるのは、これは回想なのではないかということである。物語の後半は数年後に飛び、東京で立派な社会人になっている主人公たちが、田舎の高校生時代を総括するのである。それなら、前半における「薹が立った」コスプレ気味の高校生時代も正当化されうる。しかし本作はあくまでリアルタイムのハイスクールラヴに終始しており、続編さえ作られても不思議ではない展開なのだ。

 昨今、日本の青春映画は、ますます年齢詐称の傾向を見せているように思う。現在公開中の三池崇史監督『神さまの言うとおり』において主人公の男子高校生を演じた福士蒼汰は21歳、同級生の山崎紘菜は20歳、染谷将太22歳。優希美青だけがぐっと下がって15歳。染谷将太は作品の冒頭でいきなり爆死してしまうので許せるが、この主要キャスト全員が同級生という設定自体、すべての観客にとって承服しがたいのではないか。優希美青はまだ子役が似合う。『放浪記』のヒロインを森光子が演じてもまったく問題はないが、それは舞台でのこと。映画では無理だろう。
 福士蒼汰はNHK朝ドラ『あまちゃん』でも高校生を演じて、かなり違和感があった。同作でヒロインを演じてブレイクした能年玲奈は、見た目が幼くセリフ回しも舌足らずのため、高校生役はまったく問題がなかったが、その能年にしても今年の『ホットロード』では、なんと中学生の役に挑んでいる。中森明夫は、インタビューで能年本人から中学生に見えたか?と質問されて「ちゃんと中学生に見えた」と答弁しているが、それを読んだこちらとしては「嘘言わないで」である。『ホットロード』で能年のボーイフレンドを演じた高校生役の登坂広臣(三代目J Soul Brothers)にいたっては27歳で、やはりアラサー。『ホットロード』を見て私が感じた印象は「すべてが狂っている」である。くしくも『ホットロード』と『アオハライド』の監督はともに三木孝浩。この三木監督を、私は親しみをこめて「年齢詐称的青春映画の巨匠」と呼ぶこととしよう。
 こうしてみると、安里麻里監督『劇場版 零~ゼロ~』が、いかに良心的な作品であることか。全寮制ミッションスクールを舞台とした学園ホラーで、『サスペリア』のように現実離れしているが、中条あやみ(17歳)、森川葵(19歳)ともに高校生の危うさそのものがリアルに表現されていた。
 矢崎仁司監督『太陽の坐る場所』も同様で、女たちが10年後の世界からみずからの女子高校生時代を総括するという内容であるが、主演の水川あさみ、木村文乃、森カンナらのいずれもが、その高校生時代を別の少女が演じている。この変容におけるダブルキャストの符合のしなさ加減が、かえって作品に緊張感をもたらしているのである。

『フューリー』 デヴィッド・エアー

2014-12-24 10:30:46 | 映画
 『フューリー』というタイトルを聞くとわれわれ世代には、ブライアン・デ・パルマ監督、カーク・ダグラス、ジョン・カサヴェテス出演による同名の超能力スリラー(1978)が思い出されるが、今回の『フューリー』はもちろんそれとは何の関係もない。デヴィッド・エアーはこの1ヶ月のあいだに『サボタージュ』『フューリー』と新作公開が2本続いた。彼自身のアメリカ軍への従軍経験をもとに、迫真の戦争映画を作りあげている。
 第二次世界大戦末期の1945年4月のある一日。ドイツ降伏まであと4週間後に控えた最後の死闘、映画はそれだけを2時間あまり描き続ける。戦場の地獄ぶりは延々と示されるが、かといってこれは反戦映画ではない。戦争礼讃というのでもないが、とにかく戦闘のダイナミズム描写オンリーである。これを「好戦性」といっていいかは置くとして、戦争映画としてのこのエンターテインメント性を、現代の私たちは批判しうるのか?
 その問いに対して、2つの答えがあるように思える。ひとつには、反戦映画の非誠実に接した際に、彼ら戦場に投げ込まれた男たちのミニマルなサバイバル劇として、相対的に「映画」として認知されうる、ということである。非常にデリケートな認知だが。反戦の皮をかぶった好戦映画、いや好戦というよりも、旧日本帝国軍の精神的高潔さの再=顕揚を目的とした全国民動員的な感動装置である『永遠の0』の危険性を前にした時、消極的にであれ『フューリー』の側に私たちは回らざるを得ないのだ。
 しかし、もうひとつの答えもある。第二次大戦における連合軍勝利の意義は、その後のアメリカ軍の世界における横暴の数々をへて、すでに完全に無効化された。そして現代の極東情勢──日本、中国、南北朝鮮がそれぞれ野蛮な民族主義、愛国主義に堕し、憎悪のスパイラルに明け暮れ、独裁政権が「戦後レジーム」の解体を着々とすすめる情勢──を鑑みた場合、『最前線物語』『ハートブレイク・リッジ』の痛快さ、アクション映画としての戦争映画は、理念的に不可能なジャンルとなりつつある、という答えである。だから、この『フューリー』を見る私たちは、手に汗を握って主人公たちのサバイバルを応援する自分と、上において素描したアンビバレンスによって引き裂かれる自分、この2つの経験をしなければならない。


TOHOシネマズ日劇ほか全国で上映中
http://fury-movie.jp

『西遊記 はじまりのはじまり』 周星馳(チャウ・シンチー)

2014-12-21 22:14:09 | 映画
 『少林サッカー』の周星馳(チャウ・シンチー =スティーヴン・チャウ)が『ミラクル7号』以来5年ぶりの新作『西遊記 はじまりのはじまり』を発表した。周星馳としてはついに監督・プロデュース・脚本のみとなり、初めての非出演作品となった。淋しさを禁じ得ない。
 周星馳を『少林サッカー』のみのイメージから、荒唐無稽なVFXを多用したお馬鹿映画の人と位置づけるのは、かえって退屈な「褒め殺し」だ。荒唐無稽というのは間違いないけれども、お馬鹿映画として消費するのはもったいない。1990年代以降、80年代シネフィリーの反動として、いわゆる「B級映画」をめくらめっぽうに崇拝する傾向が強まり、彼らの合言葉として「お馬鹿映画」という用語がある。彼らは一様にアートシネマや作家の映画を毛嫌いし、美食的スノビズムとして遠ざける。ところがじつは、「お馬鹿映画」を愛でるという行為ほどスノッブな行為はない、ということに彼らは気づかないのである。
 周星馳を、いわゆる「お馬鹿映画」のコノテーションから解放する必要が、今後生じるだろう。友人Hはこの『西遊記 はじまりのはじまり』について、「ただひとりも近代人が存在しない印象があ」り、「じつに奇妙な作品」であると私に述べた。この見解が周星馳を語るための端緒になるか、それはわからないが。

 『西遊記』というと日本では、日テレのドラマ(1978-80)で夏目雅子が三蔵法師を演じたインパクトが強く、それ以来、宮沢りえ(1993)、牧瀬里穂(1994)、深津絵里(2006)と美人女優が男装して挑む役という奇妙な習慣が定着した。今回は峯田和伸ふうの優男である文章(ウェン・ジャン)が演じて、未熟さを強調している。経典をもとめて天竺(北インド)へ旅をする冒険譚のはずだが、今回版の主人公は、妖怪ハンター修行にいそしむ若き日の三蔵で、妖怪を倒すのではなく、彼らの内なる良心に訴えて改心させる手法をなんども試みて、失敗を重ねる。そんな彼に岡惚れする美人妖怪ハンターを、侯孝賢組(『ミレニアム・マンボ』『百年恋歌』)の台湾女優・舒淇(スー・チー)が演っているのがうれしい。日本なら、彼女が三蔵法師を演じることになるだろう。
 三蔵が沙悟浄、猪八戒、孫悟空と対決しつつもこれを出会いとし、天竺旅行の4人組グループを結成するまでの前日譚である。孫悟空、猪八戒、沙悟浄のおなじみ3妖怪は、日テレ版ではそれぞれ堺正章、西田敏行、岸部シローが愛嬌よく演じていたものだが、今回の彼らは、過去作品からはほど遠い残虐なモンスターであり、無残な人食い、殺戮シーンだけで作品が成り立っている印象だ。だからこそ、非暴力を標榜する無力な三蔵の存在がだんだん引き立ってこなければならないが、その点がすこし弱いのが残念だ。悲愴さと晴れやかさのない交ぜとなった旅立ちのラストはすばらしい。このラストに『Gメン’75』のスキャットが流れるが、単なるパロディを超え、タランティーノ的凄惨美に達している。


11/21(金)より全国順次公開
http://saiyu-movie.com

Whose sleeves?

2014-12-19 01:01:07 | アート
 いま根津美術館で《誰が袖図 描かれたきもの》というのをやっている。「誰が袖(たがそで)」が何なのかというと、英語では「Whose sleeves?」。衣桁や屏風に、誰かの脱いだ着物がかかっている無人図のことである。安土桃山時代、江戸時代初期に流行した。「先ほどまで、かの人はいた」「だけど、もういないよ」という淡い時間推移の戯れを描くという点で、日本的でありつつも超現代的なジャンルと言える。脱ぎ捨てられた着物、置かれたままの文房具、読みかけの書物、そして、まだ匂い立つ香炉。「その着物に梅の花弁が触れたらしい。その残り香が、その人のおもかげを際立たせる」といった繊細な感覚は和歌でも詠われてきたが、無人ショットを1枚の画で見せられるインパクトは、小津安二郎の映画を思い出せばいい。
 画面上こそ無人ショットかもしれないが、フレームを少しだけずらしてみると、男女のあられもないマグワイが写りこんでしまうかもしれない。あるいは、お付きの者に手伝わせて湯浴みの最中なのかもしれない。しかし、画面に少し前まで人がいた気配が漂っているのに、現にいまはいなくなっている、というのが肝心である。
 ヴェンダースが20年前に出した写真集『かつて…』(PARCO出版)は、完全に「誰が袖」である(過去のヴェンダース記事を請参照)。画面に「映る、写る」とはつまり、「移る」と同じことなのだから。画面内の存在は写っていることによって、移ろいゆき、いつしか変化し、溶け出していってしまう。着物、香炉、文房具といった証拠物品だけを丹念に描きこむ「誰が袖図」は、単に不在を示すものではない。ゼロではない。ワンプラスワンプラスワンプラスワンプラス…=ゼロとしてのゼロなのだ。
 このことは今春、久世光彦の遺著『死のある風景』について書いた記事のなかで、久世が「演劇の空舞台(カラブタイ)が好きだ」と述べていることについて触れた時ともつながっている。
 今展では同館所蔵の3点の「誰が袖」を中心に、これらの着物の持ち主である女たちの実態、正体を追い求めるかのように宮川長春、歌川広重の美人図を動員する。伊万里焼の色絵婦人人形まで持ち出している。しかしそれが空しい試みであることは、主催者も鑑賞者も分かっている。そして…、この点が肝心なのだが、これらを見る私たち鑑賞者自身もまた、「誰が袖」的不在に秒刻みで近づいていることを意識せざるを得ないのだ。


《誰が袖図 描かれたきもの》は根津美術館(東京・南青山)で12/23(火・祝)まで
http://www.nezu-muse.or.jp