宮崎駿『風立ちぬ』、高畑勲『かぐや姫の物語』を見て、両方ともいいと思った。
とくに前者における戦前の描写のあり方(たしかに肝心のことが奇妙なほどに忌避されているが、描きたいディテールへの偏向は単純な欺瞞ではないことは明らかだし、主人公の夢想的な唯美主義が度を越えているのは確かだが、これが観客にファシズムの蔓延を促すという論評は逆に過大評価だろう。宮崎はむしろ主人公の中に巣喰ったファシズムにこそ焦点を当てており、それは『暗殺の森』と同様だ)、そして、後者における『忍者武芸帳』タッチの筆さばき、『竹取物語』という作者も成立年代も不明なこの最古の物語がすでに孕んでいた反権力性をあからさまに再-露呈させる試み、こうした諸々にひたすら心動かされた。
もちろん「月刊シナリオ」「映画芸術」両誌などで手厳しい『風立ちぬ』批判が展開されたことは知っている。映芸における記事のひとつひとつは深い省察のもとに書かれたことは明らかで、来たボールを打ち返すようにレビューを書くタイプの私にはとうてい書けないものだ。
それでも私が『風立ちぬ』を肯定するために、どのような手続きが必要なのだろうか。それは(日を変えて)順を追っておこなわねばなるまいが、最初に述べておきたいのは、私自身が別段、宮崎駿のファンでもスタジオジブリのファンでもないということだ。そもそも「GHIBLI」と書いて「ジブリ」と表記する時点で許し難いという観念が、同社の創立当初からなかなか抜けなかった。イタリア語で「GHI」と綴ったばあい「ジ」ではなくとうぜん「ギ」の音となるわけだから、「GHIBLI」は「ギブリ」に決まっているではないか。こういうディテールのたくまざる錯誤の中にこそ、弱点が胚胎しているのではないか。となると、私が評価しようとしているのは、錯誤に転化しうる蜃気楼でしかないのかもしれぬ。
『風立ちぬ』と『かぐや姫の物語』の製作過程に密着したドキュメンタリー映画『夢と狂気の王国』を、TOHOシネマズ錦糸町で見た。監督は『エンディングノート』(2011)の砂田麻美。必見の作品であるが、それは見終わったあとにパチパチと褒めてもらうためでは必ずしもない。とくに『風立ちぬ』に否定的な意見を持っている人たちに見てもらって、意見交換できたらいいと考えるのみである。
ただし、これは前々から思っていたことなのだが、TBS『情熱大陸』やWOWOW『ノンフィクションW』など、夥しい数の著名人密着ドキュメンタリーが日々製作されている状況下で、このジャンルの鉱脈が尽きかけているのではないか。被写体のパッションに伴走してぶん廻しのハンディでフォローするにしろ、被写界深度の浅いレンズで端正かつ繊細なアングルに仕立てるにしろ、すでにそれはもうどこかで見たことのある映像のくり返しに思えてしまう。
あとは被写体に対する作者の思い入れだけが勝負なのだが、それさえもがある種のクリシェとなっているケースが多い。とりわけその危険性はスポーツ選手の密着もので顕著であるが、それ以外の被写体がクリシェから免れているとはかぎらない。宮崎駿という被写体ははたして、そのクリシェから身を引き離し得たのか? ぜひ劇場で確かめていただければと思う。
TOHOシネマズ六本木、新宿バルト9、TOHOシネマズ錦糸町ほか全国で上映中
http://yumetokyoki.com
とくに前者における戦前の描写のあり方(たしかに肝心のことが奇妙なほどに忌避されているが、描きたいディテールへの偏向は単純な欺瞞ではないことは明らかだし、主人公の夢想的な唯美主義が度を越えているのは確かだが、これが観客にファシズムの蔓延を促すという論評は逆に過大評価だろう。宮崎はむしろ主人公の中に巣喰ったファシズムにこそ焦点を当てており、それは『暗殺の森』と同様だ)、そして、後者における『忍者武芸帳』タッチの筆さばき、『竹取物語』という作者も成立年代も不明なこの最古の物語がすでに孕んでいた反権力性をあからさまに再-露呈させる試み、こうした諸々にひたすら心動かされた。
もちろん「月刊シナリオ」「映画芸術」両誌などで手厳しい『風立ちぬ』批判が展開されたことは知っている。映芸における記事のひとつひとつは深い省察のもとに書かれたことは明らかで、来たボールを打ち返すようにレビューを書くタイプの私にはとうてい書けないものだ。
それでも私が『風立ちぬ』を肯定するために、どのような手続きが必要なのだろうか。それは(日を変えて)順を追っておこなわねばなるまいが、最初に述べておきたいのは、私自身が別段、宮崎駿のファンでもスタジオジブリのファンでもないということだ。そもそも「GHIBLI」と書いて「ジブリ」と表記する時点で許し難いという観念が、同社の創立当初からなかなか抜けなかった。イタリア語で「GHI」と綴ったばあい「ジ」ではなくとうぜん「ギ」の音となるわけだから、「GHIBLI」は「ギブリ」に決まっているではないか。こういうディテールのたくまざる錯誤の中にこそ、弱点が胚胎しているのではないか。となると、私が評価しようとしているのは、錯誤に転化しうる蜃気楼でしかないのかもしれぬ。
『風立ちぬ』と『かぐや姫の物語』の製作過程に密着したドキュメンタリー映画『夢と狂気の王国』を、TOHOシネマズ錦糸町で見た。監督は『エンディングノート』(2011)の砂田麻美。必見の作品であるが、それは見終わったあとにパチパチと褒めてもらうためでは必ずしもない。とくに『風立ちぬ』に否定的な意見を持っている人たちに見てもらって、意見交換できたらいいと考えるのみである。
ただし、これは前々から思っていたことなのだが、TBS『情熱大陸』やWOWOW『ノンフィクションW』など、夥しい数の著名人密着ドキュメンタリーが日々製作されている状況下で、このジャンルの鉱脈が尽きかけているのではないか。被写体のパッションに伴走してぶん廻しのハンディでフォローするにしろ、被写界深度の浅いレンズで端正かつ繊細なアングルに仕立てるにしろ、すでにそれはもうどこかで見たことのある映像のくり返しに思えてしまう。
あとは被写体に対する作者の思い入れだけが勝負なのだが、それさえもがある種のクリシェとなっているケースが多い。とりわけその危険性はスポーツ選手の密着もので顕著であるが、それ以外の被写体がクリシェから免れているとはかぎらない。宮崎駿という被写体ははたして、そのクリシェから身を引き離し得たのか? ぜひ劇場で確かめていただければと思う。
TOHOシネマズ六本木、新宿バルト9、TOHOシネマズ錦糸町ほか全国で上映中
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