荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『鍵泥棒のメソッド』 内田けんじ

2012-10-24 03:32:07 | 映画
 『ディア・ドクター』や『夢売るふたり』が、自分以外の誰かになりすました者の行動を映像に収めたまではいいが、そこから急ブレーキをかけて、そうした人間が抱えている良心の呵責の方へとピントを合わせていってしまうのは、あまりにも無念である。どうして、なりすます者は最後までなりすますことを許されないのか? その根底には、去勢への無意識的欲動が働いているのではないかと私は推測する。
 「なりすます」ということだけを唯一の主題にもってきた『鍵泥棒のメソッド』は、映画としての出来を考えた場合はさほど印象に残らない作品かもしれない。だが、登場する人物たちのことごとくが良心の呵責とは無縁の「なりすまし」、あるいは変装者の逃走線だけを引いている点では言及に値する部分を持っている。
 題名のうちの「メソッド」とはずばり「メソッド演技法」のことを指す。なりすまされた「殺し屋」(香川照之)が売れない「俳優」の身に転落したあげく、「殺し屋」になりすました側の自称「俳優」(堺雅人)に次のように吐き捨てる。「お前の部屋にあったリー・ストラスバーグの著書、あれを読ませてもらったが、8ページまでしか読んだ形跡がなかったぞ。いるんだよ、ああいう難しい本を、買っただけで自己満足する俗物が」。
 つねに自分自身であろうとし、また自分自身以外になる資質をまったく持たない(つまりぐうたらということだ)「俳優」と、自分自身以外のあらゆる者になるために努力を惜しまない「殺し屋」。この二者の(立場の交換によって生じる)相克が、ドラマを推進する。その果てに到達するのは、すべての人にとってすべての生はつねに擬態でしかない、という明るいニヒリズムである。これを、大都会の片隅でひっそりと展開する一篇のコメディに仕立てようとした作者たちの挑戦は、私の心にはちゃんと届いた。


有楽町スバル座、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国で上映中
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