荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ムーンライト』 バリー・ジェンキンス

2017-05-01 06:21:25 | 映画
 マイアミのリバティ・スクエアという麻薬・犯罪多発地区で撮影された、泥の中から芽が出る蓮の花のような、朦朧とした夜の美しい月をすくい取ろうとしている映画である。マイアミというと、『マイアミバイス』などの警察映画、アクション映画ばかりが思い浮かぶが、ニコラス・レイの密猟映画『エヴァグレイズを渡る風』(1958)なんていういかにもフィフティーズ的な傑作もある。いずれにせよ、明るい南国の陽光とは裏腹に、油断の許さない暗黒街のイメージがある。ロケーション期間中、スタッフ&キャストにはボディガードが付いた(とはいえ監督自身が地元出身のため、地区の住人はロケに危害を加えなかったそうだ)。
 薬物中毒の売春婦の息子シャロンは、リバティ・スクエアの子どもたちに絶えずいじめられている。シャロンを、小学生、高校生、成人期と3つのパートに描き分け、それを別々のアフリカ系アメリカ人俳優が演じている。面白いことに、その身体的特徴がはなはだしく異なり、別人にしか見えない。小学生のシャロンは小柄で「リトル」とあだ名されている。高校生のシャロンはひょろりと細長く、ゲイに目覚める。彼の孤立と鬱屈ぶりは、ヴィンセント・ミネリ『お茶と同情』(1956)のシスターボーイを思い出させる。そして、大人になったシャロンは筋肉質に肉体改造し、高級車のスピーカーでヒップホップを聴いている。
 『お茶と同情』では、シスターボーイを精神的に助ける舎監の妻をデボラ・カーが非常に印象的に演じていたが、この『ムーンライト』にも、似たような慈愛に満ちた年上の女性が登場する。テレサという、麻薬密売ボスの恋人である。このすてきなアフリカ系女性と主人公シャロンの擬似的な母子関係はずっと続くが、画面上からは前半だけでいなくなってしまう。私たち観客はもっとこのテレサという女性を見続けたいと思い、後半における彼女の不在を寂しく思う。父性の喪失、そして母性の稀薄は、主人公あるいは作者にとって、取り返しのつかない宿命としてあるのだろう。
 アトランタに転居したシャロンが久しぶりにマイアミに帰省して、高校時代の親友(じつは恋心を寄せていた)ケヴィンに会いに行く、夜のダイナーのシーンが出色である。ケヴィンはシャロンに最初は気づかない。ケヴィンは高校時代の裏切りをシャロンに詫びたものの、タフガイとなったシャロンの風貌変化にとまどいを隠せない。登場人物たちの記憶と体験はしっかりとした紐帯で留まっているものの、じっさいのところ3つの時代はもはや別々の作品と言ってよく、撮影手法も色調もまったく異なる。シャロンと母親、シャロンとケヴィンの再会を、ヨリの切り返しで見せていく第3パートは、堂々たるメロドラマへと傾斜し、私たち観客を揺さぶるだろう。


TOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷)ほか全国で公開
http://moonlight-movie.jp


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