荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』 三木孝浩

2017-01-16 10:51:57 | 映画
*本記事はネタバレを含んでいます。未見の方はご注意ください

 ぼくはあす/きのうのきみと/デートする。五七五の小気味いいリズムを刻んでいる。それは叡山電車の走行リズムであり、溺れた5歳のぼくをどこかの彼女が救ってくれた記憶である。京都の美大生である20歳の主人公の福士蒼汰が、叡山電車の車内で同じく20歳の小松菜奈に出会って、恋に落ちる。すぐに恋人同士となるが、じつは小松菜奈は、時間が逆回転しているパラレル世界から、父母と共にこの世に移転してきたのだという。だから、5歳の時に宝ヶ池で溺れた彼を救ったのは、35歳の時の彼女であり、彼が10歳の時にもう一度家の近くに訪ねてきてくれて一緒にたこ焼きを食べたのは、30歳の時の彼女だ。その見返りとして、福士蒼汰は35歳の時に、まだ5歳の彼女を爆発事故から救うことになるだろう。
 そう考えると、シナリオとしては合点がいく。タイム・パラドックスと青春恋愛譚のマリアージュが、映画興行の黄金比率であることは、『君の名は。』を見れば明らかである。さらに、かつては京都の市電だったという叡山電車の走行が、このセンチメンタルな映画の画面に、ある一定の楽天的リズムを刻みつけている。
 しかし、何かが間違っているのではないか。福士蒼汰と小松菜奈が苦しむのは、時間の逆行のためではない。午前0時をまわるとおたがいの時空間がリセットし、逆方向に一日を重ねるという具合である。ところが、白昼を三条か祇園あたりでデートで過ごすなり、美大のアトリエで彼女をモデルに肖像画を描くなり、下宿でセックスするなりして過ごす分には、彼らはたがいに順行しているわけである。これはじつにご都合主義的だ。時間を逆行するカップルの悲恋を本気で描くなら、一瞬一瞬を共に過ごす2人の男女が、毎秒毎秒逆方向にすれ違っていく物語でなければならない。福士蒼汰にとっての順行は、小松菜奈にとってはつねに逆行なのでなければならないのではないか。
 欺瞞とまでは言わないが、カラオケに行った場合、サビをデュエットできるというのは、都合が良すぎる。彼らにとって音楽はつねに、ビートルズ後期のような、逆回転したテープの流れのようでなければならないはずである。上ったり下ったりする階段を描かずに、踊り場だけを描くことによって、メロドラマを成立させようとしているのは分かる。でも、それで観客を納得させることができるのだろうか。


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