荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

『月と雷』 安藤尋

2017-11-11 18:52:29 | 映画
 ペットなんかをスマホで撮影したら、誰にでも可愛らしく撮れてしまうだろうが、映画はまったく別次元である。映画作家も動物を撮れたら一流だとよく言われる。なかなかそういう人は出てこないのだけれど。動物同様に才能が要求されるのは、火、水、風、光、土だろう。そして何と言っても気象である。晴天を晴天として撮れる人、曇天を曇天として、雨天を雨天として、嵐を嵐として撮れる人を、私は尊敬してやまない。青山真治を以前から変わらず「現代では稀少なグリフィス的映画作家」として敬ってきたのはそういうことであるし、『愚行録』で急に登場した石川慶監督に期待するのもそうなのである。
 安藤尋監督の新作『月と雷』を見た。茨城のさびれた農村の一軒家を、じつに表情豊かに画面に収めている。「表情豊か」などと陳腐な表現しかできない自分がもどかしいが、言いたいのは、場面ごとにその家が変化するということだ。安藤尋は、原作と脚本のプレテクストに恵まれている映画作家だけど、映画それじたいのありように一作一作、安藤の色が濃厚に出てきていて、今回私は作品のなかをどっぷりと徘徊してしまった。一軒家に誰かが一人取り残されたと思ったら、こんどは親類のようで他人のような人々が集まりだして、妙に賑やかになる。でもそれがかりそめの賑やかさであることは、誰もが承知している。
 安藤映画は、ここぞという時の火、光に力を感じる。『海を感じる時』(2014)終盤の市川由衣と池松壮亮の頭上で街灯がパンと割れるシーンが、いまだに脳裏に残っていて、今回の『月と雷』も、高良健吾の足元で燃える炎が素晴らしかった。火という移ろいゆくものの中に過去の証拠物を投入して、移ろいの風に乗せていく。
 安藤映画の光、炎はどこかしら人間忌避を示しているのかもしれない。決して冷たい映画ではなく、むしろ人間臭くすらある安藤映画だけれども、どこかしら否定の意志が働いているように思う。そして否定のあとにくる諦念を引き受けた上で、なおも元気でいる。近作のヒロインたちの強さを、私はそんなふうに解釈している。


横浜シネマジャック/ベティ、シネマテークたかさきなど、各地で続映中
http://tsukitokaminari.com


最新の画像もっと見る

コメントを投稿