先日、戦前の浅草のモダニズムを軽やかにスケッチした『踊り子日記』(1934)を見たばかりの矢倉茂雄だが、同じくP.C.L.(東宝の前身)製作の『浪子の一生』(1935)も見ることができた。
華族の令嬢・浪子(伏見信子)が、ある子爵家に嫁ぐものの、胸を病んで離縁され、サナトリウムで息を引き取る、という1時間半にも満たない悲劇である。この作品の一番の見どころは、出戻りの伏見信子と、実家の継母・英百合子の奇妙な母子愛が、孤独な2人の女の傷の舐め合いとして、ベットリとした情感でもって作品の後半を圧倒してしまうことだ。
ジャズ、華族の洋館、自動車、銀座の街路、伊豆の別荘、サナトリウムと、ひとしきりモダニズムが画面を彩ったあと、足音もなくそっと死が忍び寄ってくる。
そしてラストシーンでは、伏見信子を秘かに慕ってきた実家の門下の男(若き瀧澤修が演じている)が、彼女の遺骸をサナトリウムから東京まで運ぶ葬列を先導する。馬上のこの男は、「それではお嬢様を、山の下までお連れいたします」と遺族一同に述べるが、思いつめたその男の顔は、心なしか晴れがましささえ漂わせている。この倒錯的な晴れがましさが、最近いくつかの劇場で見たいかなる若手監督の日本映画よりも、はるかに遠くへと、見る者を連れて行ってくれてしまうのである。
華族の令嬢・浪子(伏見信子)が、ある子爵家に嫁ぐものの、胸を病んで離縁され、サナトリウムで息を引き取る、という1時間半にも満たない悲劇である。この作品の一番の見どころは、出戻りの伏見信子と、実家の継母・英百合子の奇妙な母子愛が、孤独な2人の女の傷の舐め合いとして、ベットリとした情感でもって作品の後半を圧倒してしまうことだ。
ジャズ、華族の洋館、自動車、銀座の街路、伊豆の別荘、サナトリウムと、ひとしきりモダニズムが画面を彩ったあと、足音もなくそっと死が忍び寄ってくる。
そしてラストシーンでは、伏見信子を秘かに慕ってきた実家の門下の男(若き瀧澤修が演じている)が、彼女の遺骸をサナトリウムから東京まで運ぶ葬列を先導する。馬上のこの男は、「それではお嬢様を、山の下までお連れいたします」と遺族一同に述べるが、思いつめたその男の顔は、心なしか晴れがましささえ漂わせている。この倒錯的な晴れがましさが、最近いくつかの劇場で見たいかなる若手監督の日本映画よりも、はるかに遠くへと、見る者を連れて行ってくれてしまうのである。
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