荻野洋一 映画等覚書ブログ

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葛河思潮社『浮標(ぶい)』

2011-02-05 06:37:37 | 演劇
 吉祥寺シアターにて、葛河思潮社の『浮標(ぶい)』。作・三好十郎、演出・長塚圭史。私が三好十郎によるこのあまりにも壮絶な戯曲(1939)の上演を見るのは、栗山民也演出による2003年の上演(新国立劇場)以来のことであり、三好作品そのものは、半年ぶりの観劇となる。胸を病んで死の床にある妻(藤谷美紀)を、かつては次代の画壇を背負う逸材だと有望視された洋画家の夫(田中哲司)が、絵筆を捨てて看病に全身全霊をかける、ということだけを語るストーリーに費やされた上演時間は、なんと4時間…。
 リアリズム全盛時代の戦前の新劇をもう1度、抽象性の中に投かんするやり方というのは、さして珍しい手法ではない。フローリングの「ロ」の字型回廊の内側の長方形の空間には、白砂が敷かれている。千葉の片田舎にある別荘という設定だから、ここに籐いすと洗面器を置けば、この砂の空間は即席の “寝室” や “庭” に早変わりし、若い男女が水着でたたずめば “海岸” にもなる。あるいは、生命を吸い込んで無に帰してしまう “砂丘” のようにも見えてくるし、不毛の “砂漠” にさえ姿を変えることができる。場合によっては、日本的美をあからさまに表した “枯山水” だとも言える。この正体不明の舞台美術が、長塚の演出に抽象度と自由を与え、この点で私は本公演を成功作だと思った。

 俳優の演技という点では、釈然としないものを感じたと記さねばならない。主人公は、深刻な病状の妻を抱え、心身共に疲弊している上に、収入の消滅と生活の困難、潔癖な性格の彼を追いつめる低俗な画壇、財産名義の書き換えを迫る家族、などといった苦境が次々に襲ってきている。そのたびに、彼はヒステリックな論争で応戦するしか方法をもたないのだが、本公演で主人公を演じた田中哲司は、すこしばかり熱血漢的にすぎるというか、小劇場的にワアワアわめくか、ブツブツとつぶやくか、そのどちらかに終始してしまったことは否めない。田中哲司当人はインタビューの中で、この役を演じるに当たって「丁寧に演じすぎても伝わらず、かといってヒステリックにわめくのもだめ」と自戒しているが、落としどころの発見は、本番までに間に合わなかったようだ。そしてこれは、長塚圭史の演出の限界と評されても仕方のないものだ。
 この点、比較するのは悪いとは思うけれども、栗山演出(2003)時に主人公を演じた生瀬勝久の方が、自在な緩急の中に、天才芸術家の狂気と、あわれな夫の自嘲、滑稽をあざやかに出していたと思う。ラストシーンで、夫は今にも息を引き取ろうとしている妻の枕元で、彼女を眠らせないように必死に『万葉集』を詠んで聞かせ、自己流の解説で熱弁をふるい続ける。まさに壮絶なラストシーンなのだが、田中がひたすら絶叫口調で詠むものだから、和歌などはあんなふうにがなり立てられたら、まったく意味が分からないではないか。
 そこへいくと生瀬の場合、現代語訳と自己流解説を情熱的に披露しながら、やや自己陶酔にさえ陥りつつ、はっと我に返り、「まあ、講義の方が長くなってしまったが」と弁解してみせた一瞬、客席から笑いが起きたのである。ところが、まったく同じセリフが今回ももちろん存在しているにもかかわらず、あの壮絶な愁嘆場での一瞬の笑いという余地は、あり得ないものだった。
 1940年初演時(新築地劇団 演出・八田元夫)における丸山定夫はいったい、どのようにラストシーンを乗りきったのだろうか? 私たちのような若輩者は、伝説的な丸山のありようを、丸山の出演した映画作品での彼を思い出しながら、想像することしかできない。
 途中、ドクター(長塚圭史)の美しい妹(中村ゆり)の水着姿を眺めながら、主人公が劣情を抱くシーンがある。このシーンはいわば、作者による自己批判的なシーンであり、将来、この美女と再会する機会に備えて、「妻と死別した淋しさゆえに君に近づいたのではなく、ずっと以前から君の好意には気づいていたのだ」という意味のアリバイ的シグナルを、手付け金として支払っているかのような残酷、卑劣なシーンであると思うのだが、今回の上演では、そうした、誠実で妻思いの、自己犠牲に邁進する夫の隙間にぞおっと吹いてしまう不道徳の風を、私はあまり感じることはできなかった。

 拙劣なる長文ついでに、批判めいた文言をさらに言いつらねておくならば、本作には、「戦争で戦っている兵士が、最も生を濃密に生きているし、最もわれら万葉人の子孫としての生を生きている」という意味のことを、主人公が主張するシーンがある。この点は、半年前に紀伊國屋サザンシアターで上演されたばかりの『峯の雪』でも、私が最も引っかかった部分であって、これは三好十郎の戦前・戦中における転向、変節、時局迎合をしめす証拠である。
 演出の長塚は、上演冒頭で観客にむかって挨拶し、戯曲の第1ページに「時──現代」とあるのだから、僕はこれを現代劇として提示します、というようなことを宣言していた。ならば、戦意昂揚色の濃い部分を明確に残すこの『浮標(ぶい)』という戯曲を、彼はどのような意図で「現代劇」とするのか。この肝心の部分が曖昧模糊としたままなのである。ひょっとして、周辺国の軍事大国化や領海侵犯、日本の国運衰退、といった懸案を前に、演出家が本気で戦死の貴さを「現代的課題」ととらえていたなら、話は笑いごとではなくなるだろう。


吉祥寺シアター(東京・武蔵野市)にて、2月13日(日)まで上演中
http://葛河思潮社.jp/bui.html


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1 コメント

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『浮標』再演決定 (中洲居士)
2012-07-20 14:38:15
葛河思潮社の旗揚げ公演『浮標』(作・三好十郎、演出・長塚圭史)が、9月に再演されるそうです。主演は田中哲司で変わらずですが、妻役が前回の藤谷美紀から、今回は松雪泰子に交替しています。

9/20(木)~30(日) 世田谷パブリックシアター(東京・三軒茶屋)
※拙ブログの記事はやや否定的な評価もしていますが、見応えはあります。ただしご覧になる方は上演時間4時間ですので、お気をつけて。
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