今年は、中国で辛亥革命が起きて100周年にあたる。翌1912年には “ラストエンペラー” 宣統帝・溥儀が退位し、清は滅亡した。また、この1912という年号は東京において、現存する最古の映画会社である日本活動写真株式会社、すなわち「日活」が誕生した年でもある。世界史の重要項目である辛亥革命と、映画史の一事件にすぎない日活の創業を、なぜここに並べてみせるのかというと、この2つのできごとが、じっさい密接に結びついたことがらだからである。
この2つのできごとを結びつけるのは、ひとりの日本人だ。梅屋庄吉(1868-1934)。シネマトグラフ黎明期の代表的な製作会社のひとつ「M・パテー商会」(1906-1912)の創業者である。日活は、吉沢商店やM・パテーなど4社がトラスト合併して誕生した独占企業体だが、この合併を先導したのがM・パテー社長の梅屋庄吉である。
梅屋は、興行収入のうち膨大な金額を孫文(1866-1925)につぎこみ、革命以前も以後も孫文を財政面から支え続けた。援助の合計は現在の貨幣価値に換算して、なんと1兆円におよぶ。M・パテーを始める前、香港で出張制の写真スタジオを経営して一発当てていたころに、孫文との友情が始まったらしい。「君は兵を挙げたまえ。われは財を挙げて支援す」との勇猛なる名言を孫文に叩きつけたそうだ。
この写真展では、そんなふたりの男の生涯を通じた侠気あふるる友情を、ゆっくりと跡づけることができる。辛亥革命は、中国大陸におけるブルジョワ型民主革命であったと同時に、日本人にとっても、明治維新に遅れて生まれた世代による維新ゲームのロマンティックなパート2だったわけだ。
梅屋は東京・大久保の百人町に、広大な洋風邸宅とM・パテーの「大久保撮影所」を構えていた。JR新大久保駅と大久保駅の中間にひろがる三角地帯は、現在こそ雑然たるコリアン・タウンに変わりはてたが、明治・大正期は山の手の高級住宅街だった。この梅屋邸では、日本に亡命中の孫文と、「宋家の三姉妹」の美しい次女・宋慶齢(1893-1981)の結婚式もおこなわれた(1915)。
「大久保撮影所」は、日活が向島の隅田川河畔に新スタジオを建設した時にいったん閉鎖されたものの、その後、日活と袂を分かった梅屋が「M・カシー商会」なる新会社を立ち上げて(「カシー」とは妻の旧姓「香椎」からとっている)、再稼働したこともある。ところで、跡地には記念碑でも建っているのだろうか。通った高校がこの近所で、十代からそれなりの映画ファンだった私だが、撮影所がこのあたりに存在したらしいことくらいは知っていても、それ以上のことは聞いたことがない。
本展は、孫文との友情を中心に構成されたためか、「映画人としての梅屋庄吉」という側面はやや稀薄となっているのが残念だ。会場では、白瀬矗が南極点到達に挑んだ際にM・パテーのカメラマンが帯同した記録映画『日本南極探検』(フィルムセンター所蔵)が、液晶モニタにループ再生されている。これも1912年作品。
梅屋庄吉という伊達男を媒介にして、辛亥革命──日活設立──南極点到達という3つのできごとが、共時的なものとして同軸線上に結ばれるのは、非常におもしろいことではないだろうか。
本写真展は、東京国立博物館(東京・上野公園)本館特別5室にて、9月4日(日)まで開催
http://mainichi.jp/enta/art/sonbun/
この2つのできごとを結びつけるのは、ひとりの日本人だ。梅屋庄吉(1868-1934)。シネマトグラフ黎明期の代表的な製作会社のひとつ「M・パテー商会」(1906-1912)の創業者である。日活は、吉沢商店やM・パテーなど4社がトラスト合併して誕生した独占企業体だが、この合併を先導したのがM・パテー社長の梅屋庄吉である。
梅屋は、興行収入のうち膨大な金額を孫文(1866-1925)につぎこみ、革命以前も以後も孫文を財政面から支え続けた。援助の合計は現在の貨幣価値に換算して、なんと1兆円におよぶ。M・パテーを始める前、香港で出張制の写真スタジオを経営して一発当てていたころに、孫文との友情が始まったらしい。「君は兵を挙げたまえ。われは財を挙げて支援す」との勇猛なる名言を孫文に叩きつけたそうだ。
この写真展では、そんなふたりの男の生涯を通じた侠気あふるる友情を、ゆっくりと跡づけることができる。辛亥革命は、中国大陸におけるブルジョワ型民主革命であったと同時に、日本人にとっても、明治維新に遅れて生まれた世代による維新ゲームのロマンティックなパート2だったわけだ。
梅屋は東京・大久保の百人町に、広大な洋風邸宅とM・パテーの「大久保撮影所」を構えていた。JR新大久保駅と大久保駅の中間にひろがる三角地帯は、現在こそ雑然たるコリアン・タウンに変わりはてたが、明治・大正期は山の手の高級住宅街だった。この梅屋邸では、日本に亡命中の孫文と、「宋家の三姉妹」の美しい次女・宋慶齢(1893-1981)の結婚式もおこなわれた(1915)。
「大久保撮影所」は、日活が向島の隅田川河畔に新スタジオを建設した時にいったん閉鎖されたものの、その後、日活と袂を分かった梅屋が「M・カシー商会」なる新会社を立ち上げて(「カシー」とは妻の旧姓「香椎」からとっている)、再稼働したこともある。ところで、跡地には記念碑でも建っているのだろうか。通った高校がこの近所で、十代からそれなりの映画ファンだった私だが、撮影所がこのあたりに存在したらしいことくらいは知っていても、それ以上のことは聞いたことがない。
本展は、孫文との友情を中心に構成されたためか、「映画人としての梅屋庄吉」という側面はやや稀薄となっているのが残念だ。会場では、白瀬矗が南極点到達に挑んだ際にM・パテーのカメラマンが帯同した記録映画『日本南極探検』(フィルムセンター所蔵)が、液晶モニタにループ再生されている。これも1912年作品。
梅屋庄吉という伊達男を媒介にして、辛亥革命──日活設立──南極点到達という3つのできごとが、共時的なものとして同軸線上に結ばれるのは、非常におもしろいことではないだろうか。
本写真展は、東京国立博物館(東京・上野公園)本館特別5室にて、9月4日(日)まで開催
http://mainichi.jp/enta/art/sonbun/
同基金会副理事長の吉佩定が、「われわれは、相互理解、相互尊重、相互支持に支えられた2人の忘れがたい交流の歴史を通じ、さらに親密な両国国民の関係を築くべきだ」と強調したらしいが、これは望外のニュースだと思います。孫文というと、どうしても台湾が本家という感じになりますが、本土でもこうして評価がなされるんですね。
ちなみに、まったく関係のないことだけれど、5月に日本でも公開された陳徳林(テディ・チャン)の『孫文の義士団』で、ニコラス・ツェーが結婚するのが写真館の娘だった。私は、この映画の作者たちがやみくもに写真館を登場させたのではないと考えている。孫文のスポンサーだった梅屋庄吉という日本人が、香港で写真館を営んでいたという事実。この記憶と濃厚に結びついて生じた表現であったと推測している。
歩平さんは黒竜江省社会科学院長時代は旧日本軍が遺棄した毒ガス弾の調査をしましたので、中国人遺棄毒ガス被害者訴訟のことでお付き合いをしています。
日中友好協会新宿支部では梅屋と孫文についてのツアーや小坂さんの講演会をやっています。
孫中山の由来である中山侯爵家の屋敷跡も調査しました。
私の娘は日本大学映画学科を卒業後、サウンドデザイナーをしておりますのでよろしく。
初めまして。コメントを寄せていただき有難うございます。歩平氏にかんしてのご教示、助かります。それにしても、梅屋庄吉のような豪気な人がいたことは、日本近代史のなかでも異色だと思いますし、大きな精神的財産ではないでしょうか。