荻野洋一 映画等覚書ブログ

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涙ガラス制作所+中村早 二人展《Photoglass》

2016-02-19 02:49:25 | アート
 東京・西荻窪の「ギャラリーみずのそら」へ、涙ガラス制作所+中村早(なかむら・さき)の二人展《Photoglass》を見に行ってきた。私事だが、西荻窪の駅で下車したのはかれこれ20年以上ぶりになる。そのころ新人だった私は、バイダイビジュアル持ちこみの大工原正樹監督の長編映画のシナリオを依頼され、初稿か第2稿に意見してもらうために村上修さんに会いに行ったのが西荻だった。あれ以来である。なんとも映画化に向いていない原作で、この企画は残念ながら、第6稿くらいのところで立ち消えとなった。力不足を痛感した数ヶ月であった。
 そんな追憶に耽りながら西荻の通りを10分ほど歩くと、「ギャラリーみずのそら」があった。中村早さんの新作を見るためである。最近も新著『資本の専制、奴隷の叛逆』を上梓した友人・廣瀬純の前著『暴力階級とは何か』(2015 航思社)の表紙(写真1)を飾っていたのが、この女性写真家による作品だった。黒バックを背景に片照明を当てられた花卉が、妖しく、そして冷厳にその姿を留めている。往年の中川幸夫の生け花のようで、非常に感銘を受けた。池袋ジュンク堂で廣瀬君のトークイベントが催された打ち上げの際に、中村さんにはそんな簡単な感想をしゃべったりした。
 そして今回、ようやくこの作家の個展を訪れる機会が来たことになる。今回の新作「Flowers」の連作も『暴力階級とは何か』と同じモチーフの花卉写真である。言うまでもなく写真芸術は当然、二次元であるが、彼女の写真はどちらかというと彫刻のように三次元的である。花卉の顔だけでなく、脇腹や尻が写っている。いや、むしろ彫刻以上に三次元的かもしれない。先日、世田谷美術館でフリオ・ゴンサレスの20世紀彫刻を見ていて、その過度の正面性にいささか呆れてもいたから、よけいにそう思う。
 中村早の花卉写真を見ながら、私が想像したのは、宮内庁三の丸尚蔵館の伊藤若冲『梅花皓月図』のような、夜景に浮かび上がる花卉図だ。「ボタニカル・アートをいろいろ見たが、たいがいは白バックばかり。自分としてはいろいろ試してみて、やはり黒バックが一番しっくりきた」と中村さんは言う。夜の闇に浮かび上がる花という主題は、異常なまでに妖しさ、生々しさを放つ。以前に大阪の正木美術館で見た室町時代の禅僧・絶海中津が賛を寄せた『墨梅図』などは、私がもっとも愛する黒い絵である。清の蒋廷錫という人の『杜鵑』という作品も黒バックに花びらがあざやかに浮かび上がっている。これは台北の故宮博物院に見に行った《満庭芳 歴代花卉名品特展》の図録(民国九十九年刊)に出ているものだ。
 陶磁の世界にもある。宋代の磁州窯では「黒掻き落とし」の技法が異彩を放ったし、建窯の禾目天目茶碗や吉州窯の木葉天目茶碗(写真2)のように、植物の油分がそのまま天然の釉薬となって、黒陶を焼成する際に植物の像を文様に結んでいる。そんなふうに、今回見た中村早による黒バックの花卉写真の数々は、私の勝手気ままな想像を広げてやまないのである。
 新たな出逢いもあった。涙ガラス制作所によるガラス工芸である。ガラス工芸と言っても、コップや花生けのような実用品ではなく、涙とガラスを等化とした、きわめてメランコリックかつ小さなオブジェである。微細だが見過ごすことのできないガラスの涙の数々。涙ガラス制作所の涙の簾ごしに中村早の黒バックの花卉写真を見る。今回の作品群には、急死された「ギャラリーみずのそら」の女性オーナーへの追悼も込められているのだと作者の方が話してくれた。おのれの孤独と向き合う契機となる作品群だった。思いの外、長時間滞在して楽しませていただいた。

ギャラリーみずのそら(東京・杉並区)
http://www.mizunosora.com


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