冒頭、少年のかけ声のようなものに誘われるまま画面に集中すると、その声の主が牧童で、この声をきっかけに観客は行ったことのない場所へ旅をする。春の到来がまだ遠い冬、ポルトガル北東部の山岳地帯トラス・オス・モンテス(ポルトガル語的にいうと「トラーズシュ・モンテシュ」)。とにかく最初の牧童の顔がすごくて、いっきに引き込まれてしまう。
ドキュメンタリーでもない、フィクションでもない中間ぐらいの感触で、子どもたちの遊び、村人の様子、老婆たちの機織りといった現実が生のまますくい取られ、その上に母の過去の記憶=再現が接ぎ木され、子どもたちの道行が数百年の時間の往来を招く。風来坊が去っていく後ろ姿のワンカットを、かなり長い時間見つめる。いつのまにか、7代くらい時代が進んでいる。どんな指示を村人に出しながら製作したのか見当もつかないが、なんと自由で夢幻的な作品だろう。
石を無造作に積み上げただけの家々や、屋内で取り立てて装置もなしに藁を燃やし、即席の囲炉裏にしてしまう暮らしなど、この地方では、あらゆることが何百年と変わらないのだろう。定期的に大災害が発生し、そのたびに文明の再構築を余儀なくされてきたわれわれ日本列島の民とはまったく異なる時間がここにあることは間違いない。どうやらライ麦ぐらいしか栽培できない痩せた土地のようであるが、その代わり、暮らしを変えなければならないことは起きたことがないのだ。
観客が、村人たちの目線に完全に同化することはない。あえて言えば、アカシオ・デ・アルメイダの回すカメラの回転の中に同化していくというそんなイメージではないだろうか。貧しい村の暮らしは数百年変わらないとみんなが言ってはいるが、それでも何かが変わっていく。そして、誰か大切な人が少しずつ去っていく。変化とその予兆はすぐ傍らにあるのである。夜の明けない薄暗い雪景色の中、列車が灰色の煙をまき散らしながら画面を横切るとき、牧童のかけ声と共に始まったフィルムの映写が終わる。
アテネ・フランセ文化センター(東京・神田駿河台)で、8/12(金)に国内最終上映を予定
http://www.athenee.net/culturalcenter/
ドキュメンタリーでもない、フィクションでもない中間ぐらいの感触で、子どもたちの遊び、村人の様子、老婆たちの機織りといった現実が生のまますくい取られ、その上に母の過去の記憶=再現が接ぎ木され、子どもたちの道行が数百年の時間の往来を招く。風来坊が去っていく後ろ姿のワンカットを、かなり長い時間見つめる。いつのまにか、7代くらい時代が進んでいる。どんな指示を村人に出しながら製作したのか見当もつかないが、なんと自由で夢幻的な作品だろう。
石を無造作に積み上げただけの家々や、屋内で取り立てて装置もなしに藁を燃やし、即席の囲炉裏にしてしまう暮らしなど、この地方では、あらゆることが何百年と変わらないのだろう。定期的に大災害が発生し、そのたびに文明の再構築を余儀なくされてきたわれわれ日本列島の民とはまったく異なる時間がここにあることは間違いない。どうやらライ麦ぐらいしか栽培できない痩せた土地のようであるが、その代わり、暮らしを変えなければならないことは起きたことがないのだ。
観客が、村人たちの目線に完全に同化することはない。あえて言えば、アカシオ・デ・アルメイダの回すカメラの回転の中に同化していくというそんなイメージではないだろうか。貧しい村の暮らしは数百年変わらないとみんなが言ってはいるが、それでも何かが変わっていく。そして、誰か大切な人が少しずつ去っていく。変化とその予兆はすぐ傍らにあるのである。夜の明けない薄暗い雪景色の中、列車が灰色の煙をまき散らしながら画面を横切るとき、牧童のかけ声と共に始まったフィルムの映写が終わる。
アテネ・フランセ文化センター(東京・神田駿河台)で、8/12(金)に国内最終上映を予定
http://www.athenee.net/culturalcenter/
くわしくは劇場HPを参照。必見の作品です。
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