荻野洋一 映画等覚書ブログ

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田能村竹田を見る/読む

2015-08-05 13:59:01 | アート
 出光美術館(東京・丸の内)で会期終了した《没後180年 田能村竹田》へ、最終日にすべりこむ。うっかりもいいところで、竹田が控えているのも気づかず、三菱一号館へ3連休にのこのこ出かけ、河鍋暁斎の満員札止めに遭って、むなしく引き下がるなんて馬鹿なことをしていた。暁斎のような「奇想」系の作家よりも前に、竹田をちゃんと受け止めたいというのがわが希望である。
 江戸後期の画家、田能村竹田(たのむら・ちくでん 1777-1835)は、南画の大成者のひとりである。と同時に、理論的確立者であり、規範・総合のストイックな庇護者であった。「南画」とは何かというと、江戸時代に勃興した(おもに山水を中心とする)絵画の流派であり、中国の南宗画を祖とする。中国絵画史には大きく分けて北宗画と南宗画とがあり、北宗画は院体画の流れを汲み、北京の宮中におけるアカデミックな画風である。いっぽう南宗画は、風流な文化の中心である江南地方(現在の江蘇省と浙江省)に栄えた文人画の流れを汲む。江南の文人は学問のほかに、詩、書、琴、絵、茶などあらゆるものに精通していなければならない。だから専門の画工が宮廷ではげしく腕を競って磨いた北宗画にくらべて、南宗画は素人の手すさびである。しかし、そこに南宗画のアドバンテージもある。
 日本では、輸入された南宗画文化をなぜか「南画」と縮めて呼んだ。そこには、南宗画そのものではないという無意識も働いているように思える。拙ブログでもこれまで、私なりのあふれる愛をもって多くの南画の作家に言及してきた。文人画のパイオニアである祇園南海や、最高実力者の池大雅、与謝蕪村、谷文晁といった人々である。彼らの絵を求めて、いろいろな土地を旅してきた。今春、サントリー美術館で《生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村》展が開催されたとき、私は大人気の伊藤若冲そっちのけで与謝蕪村を穴が空くほど眺めてきた。
 2013年秋に改訂版が出た竹谷長二郎 著『田能村竹田 画論「山中人饒舌」訳解』(笠間書院 刊)を読んで、ぜひ拙ブログでも紹介したいと思いつつ、2年が経過してしまった。書評めいた文言をつらねるためには、もう一回読み直さねばならないが、いまは2点だけ言いたい。
 まず、田能村竹田が著した画論書『山中人饒舌』の本文は漢文だが、この文そのものの美しさである。竹谷氏の親切な現代語訳を追うだけでは『山中人饒舌』の魅力は半減である。中国語の分からない私でも、大学受験の一夜漬けで勉強した漢文知識で、一応は読み下せる(竹谷氏は、竹田の漢文には「和臭のそしりはまぬがれない」と序文で書いているが、それもなんとなく分かる)。『山中人饒舌』の刊行は竹田の没年の天保6年。つまり、現代で言うところの追悼出版だ。竹田の漢文の美しさ──そして今回の出光で私が注目したのは、絵だけでなく、書の美しさである。文に長け、書、絵もきわめる。一芸に秀でるだけではダメで、これは中国文人の伝統そのものだ。しかも彼はもともと豊後の藩医であり、儒学者でもあった。医者か儒者というのは、江戸時代の地方インテリの唯一の生き方である。
 もう1点。竹田はおそろしい律儀さで、南画の理論的庇護、カノン作成をおこなっている。作家としてだけでなく、批評家として南画を全霊で擁護しようとしたのだ。ヌーヴェルヴァーグでいえば、『美の味わい』の著者エリック・ロメールを思わせる。あの頑固な映画理論の構築と、選り好み。そしてもちろん、映画の実作者としても節を曲げることは最期までなかった。
 田能村竹田は豊後(現在の大分県)の出身だ。京、大坂、江戸でもない。生まれ育った場所に豊かな山野がひろがるのは、風景画の作者には有利であるし、中国文人との交流という点で長崎にも近い。しかし、芸術を続けるにはマージナルな出自だ。マージナルな立場だからこそ、奇想や逸脱に走らず、かえって頑迷に正道を求めた、ということもあるのかもしれない。


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