フランシス・F・コッポラ近年の快作『コッポラの胡蝶の夢』(2007)の原作者であるルーマニアの作家・宗教学者・民俗学者ミルチャ・エリアーデ(1907-1986)の戦後の日記はだいぶ以前に既刊だが、第二次世界大戦中に在リスボンのルーマニア大使館で文化参事官を務めていた1941から1945年にかけての『ポルトガル日記 1941-1945』がこのたび刊行された(作品社 刊)。
戦後はフランスに亡命し、同郷のシオランやイヨネスコと共に、パリ文壇で華やかな活躍を見せることになるが、この本ではそれ以前のエリアーデの苦悩に満ちた姿が刻まれている。この期間、彼は愛する妻ニーナの死に立ち会っている。ニーナの闘病と臨終をめぐる記述は、凄惨の極致に達している。
しかし、この日記を大きく特徴づけているのは、まず第一にエリアーデの書き手としてのすさまじい自負である。そして第二に、第二次世界大戦で枢軸側(ナチスドイツ側)に付いて参戦したルーマニアへの不安である。エリアーデはシオラン同様、戦前戦中はルーマニアにおける親ナチス・反ユダヤの極右組織「軍団運動(鉄衛団)」のシンパだった。つまりナチスドイツが敗れたばあい、ルーマニアという小国は隣国ロシアによって蹂躙され、無化されるだろうという、これが彼にとっての最大の心配である。以下、少し長くなるが、重要と思われる日記をいくつか引用しておこう。
まず第一の自負に該当する記述。1941年12月11日から。「私の知的地平はゲーテのそれよりも広大なのだ。たとえば、その気になれば今日にでも、19世紀のポルトガル詩に関する本を容易に書くことができるだろう。私はけっして碩学ではないが、単なる碩学以上の何者かである。」
第二のマージナルであるルーマニアについての憂国的な記述。1942年9月3日から。「マイナーな文化であることの劣等感が私を苦しめている。あらゆる手段を講じ、そしてできるだけ速やかに、他の国の人々に我々の文化を懸命になって知らせなくてはならない。フランスやイギリスの文化はなんと幸運なことか。」
同年9月23日から。「いかなる努力も無益だ、という思いに再び囚われている。文化の研究を成し遂げようとすることが、まったく何の意味もないことは確かだ。自分が一つの歴史のサイクルの終焉の時期を生きていること、そして、そのあとに来るはずの楽園のような混沌の世界に同化しえないことはわかっている。英米とソヴィエトが支配する新世界が、私のような人間を、その懐に受け入れるはずがない。新世界は私にとって苦悩そのものだ。生き続けようと死のうと、私にとっては同じだ。共産主義者たちが私を銃殺刑にしようがすまいが関係ない。私を苦しめているのはそのことではない。私の死後、私の理想としたものが実現に向かって推し進められるという確信を得ながらの死であれば、もしその死が意味をもった死であるなら、それはむしろ、私がつねに望んできた死であるはずだ。いわゆるプロレタリアートの独裁、実際のところ最も卑俗なスラヴ的要素の独裁の下に屈したキリスト教ラテン文明のなかに生き長らえることこそ恐ろしい。」
同年11月28日から。「もしロシアが勝ったなら、私の民族も、私の著作も、私自身も、文字どおりの意味でも比喩的な意味でも、消滅してしまうだろう。しかしだからといって私は天職も、また自らに課した義務も放棄するつもりはない。私は最後まで働く。」
同年12月25日から。「私に残される道は、神秘主義か、世界からの隠遁か、無秩序状態か、世界との完全な決別かのいずれかだろう。今ほど私の心と体のなかで、希望と絶望が激しくせめぎあっている時はかつてなかった。そのために私の創造的な仕事は滞っている。ロシア戦線での作戦を前にして、創作活動はすべて中断している。」
上でエリアーデが書いている「最も卑俗なスラヴ的要素の独裁の下に屈したキリスト教ラテン文明」という悪い予感は、戦後に現実のものになる。ソ連の衛星国として共産化したルーマニアは、マルクス主義の理想とは似ても似つかぬ「最も卑俗なスラヴ的要素の独裁」に堕したのである。
ひとつ注釈しておくなら、ルーマニアは東欧の国だがスラヴ民族の国ではなく、ラテン民族の飛び地であるという事実である。古代のローマ帝国の騎士団がこの地を植民地化し、ダキアという地名で開墾した。それが今のルーマニアの源流である。ルーマニア=Romania(ローマニア)。そして、ルーマニア語というのは、古代ローマで使用されていた旧ラテン語の息吹を、現代イタリア語以上に、最も正統的に伝える言語だといわれている。
そうしたルーマニア文明のコンテクストに照らし合わせながら、この日記を読むべきだろう。「軍団運動(鉄衛団)」との関係から、戦前戦中のエリアーデを批判することはたやすいが、それだけでは不十分なのである。
戦後はフランスに亡命し、同郷のシオランやイヨネスコと共に、パリ文壇で華やかな活躍を見せることになるが、この本ではそれ以前のエリアーデの苦悩に満ちた姿が刻まれている。この期間、彼は愛する妻ニーナの死に立ち会っている。ニーナの闘病と臨終をめぐる記述は、凄惨の極致に達している。
しかし、この日記を大きく特徴づけているのは、まず第一にエリアーデの書き手としてのすさまじい自負である。そして第二に、第二次世界大戦で枢軸側(ナチスドイツ側)に付いて参戦したルーマニアへの不安である。エリアーデはシオラン同様、戦前戦中はルーマニアにおける親ナチス・反ユダヤの極右組織「軍団運動(鉄衛団)」のシンパだった。つまりナチスドイツが敗れたばあい、ルーマニアという小国は隣国ロシアによって蹂躙され、無化されるだろうという、これが彼にとっての最大の心配である。以下、少し長くなるが、重要と思われる日記をいくつか引用しておこう。
まず第一の自負に該当する記述。1941年12月11日から。「私の知的地平はゲーテのそれよりも広大なのだ。たとえば、その気になれば今日にでも、19世紀のポルトガル詩に関する本を容易に書くことができるだろう。私はけっして碩学ではないが、単なる碩学以上の何者かである。」
第二のマージナルであるルーマニアについての憂国的な記述。1942年9月3日から。「マイナーな文化であることの劣等感が私を苦しめている。あらゆる手段を講じ、そしてできるだけ速やかに、他の国の人々に我々の文化を懸命になって知らせなくてはならない。フランスやイギリスの文化はなんと幸運なことか。」
同年9月23日から。「いかなる努力も無益だ、という思いに再び囚われている。文化の研究を成し遂げようとすることが、まったく何の意味もないことは確かだ。自分が一つの歴史のサイクルの終焉の時期を生きていること、そして、そのあとに来るはずの楽園のような混沌の世界に同化しえないことはわかっている。英米とソヴィエトが支配する新世界が、私のような人間を、その懐に受け入れるはずがない。新世界は私にとって苦悩そのものだ。生き続けようと死のうと、私にとっては同じだ。共産主義者たちが私を銃殺刑にしようがすまいが関係ない。私を苦しめているのはそのことではない。私の死後、私の理想としたものが実現に向かって推し進められるという確信を得ながらの死であれば、もしその死が意味をもった死であるなら、それはむしろ、私がつねに望んできた死であるはずだ。いわゆるプロレタリアートの独裁、実際のところ最も卑俗なスラヴ的要素の独裁の下に屈したキリスト教ラテン文明のなかに生き長らえることこそ恐ろしい。」
同年11月28日から。「もしロシアが勝ったなら、私の民族も、私の著作も、私自身も、文字どおりの意味でも比喩的な意味でも、消滅してしまうだろう。しかしだからといって私は天職も、また自らに課した義務も放棄するつもりはない。私は最後まで働く。」
同年12月25日から。「私に残される道は、神秘主義か、世界からの隠遁か、無秩序状態か、世界との完全な決別かのいずれかだろう。今ほど私の心と体のなかで、希望と絶望が激しくせめぎあっている時はかつてなかった。そのために私の創造的な仕事は滞っている。ロシア戦線での作戦を前にして、創作活動はすべて中断している。」
上でエリアーデが書いている「最も卑俗なスラヴ的要素の独裁の下に屈したキリスト教ラテン文明」という悪い予感は、戦後に現実のものになる。ソ連の衛星国として共産化したルーマニアは、マルクス主義の理想とは似ても似つかぬ「最も卑俗なスラヴ的要素の独裁」に堕したのである。
ひとつ注釈しておくなら、ルーマニアは東欧の国だがスラヴ民族の国ではなく、ラテン民族の飛び地であるという事実である。古代のローマ帝国の騎士団がこの地を植民地化し、ダキアという地名で開墾した。それが今のルーマニアの源流である。ルーマニア=Romania(ローマニア)。そして、ルーマニア語というのは、古代ローマで使用されていた旧ラテン語の息吹を、現代イタリア語以上に、最も正統的に伝える言語だといわれている。
そうしたルーマニア文明のコンテクストに照らし合わせながら、この日記を読むべきだろう。「軍団運動(鉄衛団)」との関係から、戦前戦中のエリアーデを批判することはたやすいが、それだけでは不十分なのである。
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