長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

のぼうの城

2012年06月10日 | 
「のぼうの城」は一昨年くらいにヒットした小説だったかと。埼玉県の忍城が舞台で豊臣豊臣秀吉の小田原攻めの際、石田三成が高松城攻めを意識した水攻めをして堤防が豊臣側に切れて失敗に終わり三成の戦下手の評価を決定付けた戦いとも言われています。その戦いをライトノベルぽく書いた「のぼうの城」はヒットしまして、ライトな歴史小説と言う新ジャンルを開いたといわれていたものです。

さて、その忍城について甲子夜話を読んでいたところこんな記事がありました。

『忍城』
忍城は武州埼玉郡にあり。この城の案内をよく知っている人がいた。この城は堀が特に多く、家臣が城主のところへ出仕する際、多くは堀を船で渡って行くという。

もともと水や低湿地の足場の悪さを城の防御に活かす考え方も多くあります。もっとも、水はけが悪いと言うことは、水がつきやすい場所でもあるわけで、その弱点を大土木事業で攻撃材料に変えてしまったのが羽柴秀吉による高松城攻めだった訳です。
忍城も同じような地形であったため、豊臣秀吉におもねった三成が同じ攻め方で行ったところ、若干地形が違っていたのと、堤防の幅が小さかったのとがあったようで堤防が決壊。豊臣側に流れ込んでしまった、というのが通説でしたが、最近では、豊臣秀吉の指示に従って三成が実施し、失敗したので三成のせいにした、という説も有力のようです。
そんな城だけに、城で主君のところへ行くのに船を使うとは、流石です。
さらに、

城の上に流川があり、これを引き入れて堀の水としている。そのため、時期が来ると城の下の堀障子を開いて堀の水をことごとく出し、乾堀にして掃除し、また水を引き入れて満たしたと言う。この堀を開いたときに魚が沢山流れ出て、皆が寄ってたかって取り合い、にぎわったという。

私が「ほぉ~~。」と思ったのは、水堀はたまに掃除する、という点です。
そして、忍城は障子堀だった、ということもわかります。障子堀は堀底に土塁のようなものが築いてあり、歩きにくくしてあります。土塁が上から見ると障子の桟のように見えるわけです。で、その土塁の一部を壊して水を流す、ということをするのだな、と。

個人的には汚臭を放つほどぐだぐだになった堀であれば、敵も「うっ。」となってかえってよいかな、と思ったのですが、住んでいるほうもたまらないので掃除する、っていうことなんでしょうかね・・・。

城普請の御役というものは住民にとって重い負担だったようです。でも、魚を貰う、っていうのが役得だったんでしょうか。
城の維持って大変ですね。


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