ぬえが今回の『梅枝』で発見したのは、「越天楽」の小書に関する事ではなくて、もっと能のプロットそのものについての事なのです。
ご存じの通り『梅枝』は『富士太鼓』と同じ物語です。簡単にあらすじを記せば、「昔 摂津の天王寺に浅間という伶人があり、また住吉神社にも富士という伶人があった。その頃内裏に管弦の催しがあり、二人は都に上ってその太鼓の役を争った。浅間は富士の行状を深く恨み、ついに彼を討ってしまった。富士の妻はこれを知って嘆き悲しんだが、富士の形見の装束を身につけ、太鼓を打って狂乱した。。」というもの。『富士太鼓』はこのストーリーを、妻の視点から現に今目の前で進行している事件として脚色し、『梅枝』はそれより後世の時代に現れた妻の幽霊が いまもなお夫への未練を断ち切れずに登場して、ワキ僧の勧めに応じて懺悔の舞を見せ、太鼓を打つ、というものです。
。。ところが、この2曲の間には、じつは富士が殺された事件の経緯について、食い違いがあるのです。
『富士太鼓』によれば、内裏の管弦の催しの主催者は「萩原院」で、最初から天王寺の伶人である浅間を太鼓の役として召したのを、富士は自分の技量への自信から勝手に都へ上り太鼓の役への登用を願い出たのです。これを聞いた帝は古歌を引き合いに出して穏便に裁定し、当初の予定通り浅間を太鼓の役と定めました。ところが浅間は自分の役を脅かした富士の振る舞いに腹を立てて、ついに富士の宿所に押し寄せて富士を討ってしまいました。。これが『富士太鼓』の能の前提となる、富士が殺害されるまでのストーリーで、能『富士太鼓』の中でシテ自身も、夫が太鼓の役を望んで都に上るために自宅を出るとき、帝から召されて決められた太鼓の役に横槍を入れる罪を恐れて夫を止めた、と言っています。
ところが『梅枝』ではこのへんの事情がちょっと異なって描かれているのです。いわく、内裏の管弦の催しはどうやら太鼓の役を誰とは決められずに企画されたようで、浅間と富士は「管弦の役を争ひ、互いに都に上」った、と語られています。そして結局その役は。。ここが重要なのですが、『富士太鼓』の物語とは違って、浅間ではなく富士に与えられた、というのです。このあたり、『梅枝』の詞章をそのままご紹介すれば以下の通り。
「富士この役を賜るに依って、浅間安からずに思ひ、富士をあやまつて討たせぬ」
『梅枝』と『富士太鼓』とはまったく同じストーリーだと思っていたら、じつはとんでもない事実の食い違いがあるのです。
二つの能の主題は富士の死の原因にあるのではなく、夫を失って、さりながらその仇を討つ力も持たない、残された妻の悲哀と、その狂乱にある事は自明で、夫の死の原因が、浅間に決められた役を横取りしようとした富士の傲慢さによるのか、それとも平等の入札の権利を行使して適法に職を得た富士に嫉妬してこれを殺害したライバル浅間の横暴によるものなのか、は能の主題とは直接関係がありません。だからこそ見落とされがちな事件の背後関係の食い違いなのですが。。じつは能1番を演じるうえでは、演劇としての脚本がきちんと成立しているのか、あるいは齟齬が起こって破綻が生じているのか、という、見過ごすことのできない大きな問題をはらんでいるのだ、という事に ぬえは気づきました。
そして今回の上演では、意外な方法によってその破綻が回避されている事も知ることになりました。
ご存じの通り『梅枝』は『富士太鼓』と同じ物語です。簡単にあらすじを記せば、「昔 摂津の天王寺に浅間という伶人があり、また住吉神社にも富士という伶人があった。その頃内裏に管弦の催しがあり、二人は都に上ってその太鼓の役を争った。浅間は富士の行状を深く恨み、ついに彼を討ってしまった。富士の妻はこれを知って嘆き悲しんだが、富士の形見の装束を身につけ、太鼓を打って狂乱した。。」というもの。『富士太鼓』はこのストーリーを、妻の視点から現に今目の前で進行している事件として脚色し、『梅枝』はそれより後世の時代に現れた妻の幽霊が いまもなお夫への未練を断ち切れずに登場して、ワキ僧の勧めに応じて懺悔の舞を見せ、太鼓を打つ、というものです。
。。ところが、この2曲の間には、じつは富士が殺された事件の経緯について、食い違いがあるのです。
『富士太鼓』によれば、内裏の管弦の催しの主催者は「萩原院」で、最初から天王寺の伶人である浅間を太鼓の役として召したのを、富士は自分の技量への自信から勝手に都へ上り太鼓の役への登用を願い出たのです。これを聞いた帝は古歌を引き合いに出して穏便に裁定し、当初の予定通り浅間を太鼓の役と定めました。ところが浅間は自分の役を脅かした富士の振る舞いに腹を立てて、ついに富士の宿所に押し寄せて富士を討ってしまいました。。これが『富士太鼓』の能の前提となる、富士が殺害されるまでのストーリーで、能『富士太鼓』の中でシテ自身も、夫が太鼓の役を望んで都に上るために自宅を出るとき、帝から召されて決められた太鼓の役に横槍を入れる罪を恐れて夫を止めた、と言っています。
ところが『梅枝』ではこのへんの事情がちょっと異なって描かれているのです。いわく、内裏の管弦の催しはどうやら太鼓の役を誰とは決められずに企画されたようで、浅間と富士は「管弦の役を争ひ、互いに都に上」った、と語られています。そして結局その役は。。ここが重要なのですが、『富士太鼓』の物語とは違って、浅間ではなく富士に与えられた、というのです。このあたり、『梅枝』の詞章をそのままご紹介すれば以下の通り。
「富士この役を賜るに依って、浅間安からずに思ひ、富士をあやまつて討たせぬ」
『梅枝』と『富士太鼓』とはまったく同じストーリーだと思っていたら、じつはとんでもない事実の食い違いがあるのです。
二つの能の主題は富士の死の原因にあるのではなく、夫を失って、さりながらその仇を討つ力も持たない、残された妻の悲哀と、その狂乱にある事は自明で、夫の死の原因が、浅間に決められた役を横取りしようとした富士の傲慢さによるのか、それとも平等の入札の権利を行使して適法に職を得た富士に嫉妬してこれを殺害したライバル浅間の横暴によるものなのか、は能の主題とは直接関係がありません。だからこそ見落とされがちな事件の背後関係の食い違いなのですが。。じつは能1番を演じるうえでは、演劇としての脚本がきちんと成立しているのか、あるいは齟齬が起こって破綻が生じているのか、という、見過ごすことのできない大きな問題をはらんでいるのだ、という事に ぬえは気づきました。
そして今回の上演では、意外な方法によってその破綻が回避されている事も知ることになりました。
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