≪ラッキードラゴン≫と聞いて、私はすぐには何の事か、全く分かりませんでした。
それが、あの≪第五福竜丸≫の「福竜」の部分の英訳だということを、1月15日の日曜美術館を見て、私は初めて知ったのでした。
≪ラッキードラゴン≫=「幸福な龍」いう言葉と、≪第五福竜丸≫の「悲劇」との間の、なんという隔たり・真逆!
そして、アメリカ在住のベン・シャーンという人が、第五福竜丸の悲劇を、≪ラッキードラゴン・シリーズ≫という絵に表されていることも、私はこの番
組で、初めて知りました。
←1月15日 日曜美術館のタイトル
←ベンシャーン(1898~1969)
1954年に起こった第五福竜丸事件に衝撃を受けたベンシャーンは、雑誌社の依頼を受けて、1957年から、ラッキードラゴンシリーズ(挿絵)を描き
始めました。
←放射能被爆で死亡した、久保山愛吉さんを描いた絵
←久保山さんが手にしている紙きれの部分のアップ
久保山さんの手に握られている紙切れには、次のような言葉が書かれています。
「私は久保山愛吉という漁師です。
1954年、私たちの乗った船、ラッキードラゴンは、ビキニで放射能を浴びました。
(中略)
その年の9月23日、私は放射能症のために、死にました。」
番組は、ベンシャーンのラッキードラゴンシリーズに共感した、これまたアメリカ人のアーサービナードという詩人・随筆家(22歳で来日)が、20
06年にベンシャーンの絵に言葉を添えて、絵本「ここが家だ」を作られたことも紹介していました。
そしてこの絵本は、第12回「日本絵本大賞」を受賞したのだそうです。
2006年と言うと比較的最近ですが、私は、この絵本の存在を、恥ずかしながら、全く知りませんでした。
アーサービナードという方は、テレビで顔を見たことはありますが、彼が、このような仕事をされていたのは、初耳でした。
この絵本の中から、ベンシャーンの絵とアーサービナードさんの文の一部を、次に載せます。
←第五福竜丸が出航した焼津港
←水爆実験の音を聞いて、天を仰ぐ漁師たち
←アーサービナードの文章の一部
私は、番組を見た時からすぐ、この絵本を買い求めようと思っていましたが、いまだに果たせていないのは、ズボラ以外の何物でもありません(涙)
番組は、ラッキードラゴンシリーズ以前以後の、ベンシャーンの活動も紹介していましたが、ここでは、私が好きな、彼の戦前の絵と写真を載せて
おきます。
まず下の絵は、1932年に描かれた「サッコとウ゛ンゼッティの受難」
二人は、無実の罪で捕らえられ、その後処刑されたのだそうです。
処刑後、棺に納められた、サッコとウ゛ンゼッティ。その傍で百合の花を持って立っているのは、彼らを無実の罪で死に追いやった裁判官たち。
次は、1930年代の大恐慌時代に、彼が、アメリカ政府の依頼(庶民の生活の現実を知る為という)を受けて撮った写真。
上の写真のどれもが、貧しいながらそれに屈せず生きている人々の、芯の強さをあらわしているように思います。
そして、彼らに対するベンシャーンの優しい眼差しが感じられて、とってもイイ写真だと、私は思いました。
最後に、ラッキードラゴンシリーズを描いた後にベンシャーンが語った言葉を、次に記しておきます。
久保山さんは、あなたや私と同じ一人の人間だった。
第五福竜丸シリーズで、彼を描くというより、
私たちみんなを描こうとしたのだ。
原子力の脅威がひしひしと感じられる今、私はベンシャーンのこの言葉を深く胸に刻んでおきたいと思いました。
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