のんスケの‥行き当たりバッタリ!

ぐうたら人生を送ってきた私が、この歳になって感じる、喜び、幸せ、感動、時に怒りなどを、自由に書いていきたいと思います。

“植木等さん” の 父・『徹誠氏』 のこと

2020-08-20 19:06:36 | 日記

8月4日放送の「歴史秘話ヒストリア」は、かつて<植木等さん>が歌われてヒットした『スーダラ節』を取り上げていた。

      

 

 

 

 

『スーダラ節』が歌われることになった背景に、植木等さんの大きな葛藤があったことも、この番組で初めて知ったが、今回

は、植木等さんに大きな影響を与えた、“父上”の生き方について、書いておきたいと思う。

 

植木さんの父・徹誠(テツジョウ)氏は、今の三重県大台町で、浄土真宗の僧侶になられた。

      

 

 

   

僧侶になられた徹誠氏は、小さな寺を選んで赴任され、僧侶としての務めだけでなく、県内を廻り社会運動的なことにも、

力を注がれたそうだ。

徹誠氏は、ある村で差別に苦しむ人に、こう(下の写真のように)語られたそうだ。

         

 

    「私は死人の供養に来ましたが、同時に、生きている人びとの良き相談相手になるつもりでもいます。(中略)

     友だち同士として、(略) なんでも相談に来てください。」

 

 

 

徹誠氏は、浄土真宗の開祖である親鸞聖人を深く敬愛し、親鸞の教えの中核である『平等』の思想を、特に大切なものと

考えられていた。

植木等さんは徹誠氏の三男だそうだが、植木等の『等』の名は、徹誠氏の理想である『平等』から一字を取って、付けら

れたものなんだそうだ。(知らなかったなあ!)

      

          (ずい分ぼけていますが、親子3代が並ばれた写真)

 

 

 

 

その徹誠氏は、等が小学生の頃、思いがけない行動をとって、世間を驚かせ、等を悲しませる。

昭和12年((1937年)に日中戦争が勃発、植木家が暮らす村でも、若者たちが召集され出征することが多くなった。

その出征する若者に向かって、徹誠氏は次のような言葉を贈られたのだそうだ

       

 

 

 

これには、私もビックリした。

日露戦争のとき愛する弟を戦争にとられ、「きみ、死にたもふことなかれ」と歌った与謝野晶子のことは、よく知られている

けれど、植木等さんのお父さんが、それと同じような中味のことを、出征する若者に贈られたとは!

「戦争は集団殺人だ」 「必ず生きて帰って来い」 「なるべく相手を殺すな」

あの時代に臆することなく堂々と、上のような言葉を言われた徹誠という方は、何と肝の据わった方だったんだろう!

私はその信念の固さに、強い尊敬の念を抱いた。

 

しかし当時、そんな発言をすることは許されるはずもなく、徹誠氏は思想犯として囚われることになる。

そして徹誠氏の逮捕を知らせる号外がばら撒かれ、学校帰りの等少年は、その号外を手にして、深く悲しむ。

 

しかしそのことによって、等さんの父への尊敬の気持ちが、消えたわけではなかった。

彼に、スーダラ節を歌う話が持ち上がったとき、こんな投げやりな歌詞の歌は歌えないと、彼は父の下を訪れ相談された

のだという。

当初等さんは、当然父親はスーダラ節を歌うことなど反対するに違いないと思われていた。

が、案に相違して、父・徹誠氏は、歌うことに反対するどころか、次のように言われて歌うことに賛成されたのだそうだ。

「“分かっちゃいるけど止められない”という歌詞は、素晴らしい歌詞ではないか。この歌詞は、人間の弱さを愛する親鸞聖

人の考えにも通じるものだと。」

 

悪いけれど私は、「スーダラ節」にも「植木等さん」にも、これまでほとんど関心を持っていなかった。

でも今回、「スーダラ節」の誕生にこのような物語があること、それを歌うことになった植木さんの父・徹誠氏の、権力に屈し

ない生き方を知ることができて、とても嬉しかった。