のんスケの‥行き当たりバッタリ!

ぐうたら人生を送ってきた私が、この歳になって感じる、喜び、幸せ、感動、時に怒りなどを、自由に書いていきたいと思います。

「1月17日」

2013-01-20 12:16:33 | 日記

 私にとって、「1月17日」という日は、3つの意味で忘れがたい日だ。

 

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 一つは、もちろん、18年前の、あの「神戸・淡路大震災」の日として。

 だが私には、「神戸・淡路大震災」について、語る資格は全くない。

 1995年1月17日、午前5時46分、寝ている私も飛び起きるほどの激しい揺れが、私のマンションを襲った。

 すぐに、停電もした。

 でも私の部屋がマンションの3階だったこともあってか、家具が倒れたりすることは全くなかった。

 私は、一応玄関まで出て玄関の戸が開くかどうかは確かめたが、それ以外は何もせず、「これ位だったら大丈夫!」と、又布団に潜り込んだ。

 私がそう判断したのには、私のそれまでの地震の経験が関係していた。

 若い頃友人数人と東北地方を旅していた時、旅館の2階で凄い揺れに襲われ、パニックに陥ったことがある。

 けれどその時、結局被害はなく済んだのだ。

 その経験から考えて、今回の地震もそれを上回るものではない、と私は勝手に判断したのだ。

 

 布団に潜り込んだ私のもとに、姉や何人かの友だちから、切羽詰まった声で、電話が掛かってきた。 

 私は事も無げに「大丈夫、大丈夫!」と答えた。

 

 事態の深刻さが分かったのは、電気が回復してつけたテレビに、次々と映される悲惨な映像を見た時だった。

 「エッ、こんな事が起きるの!?」

 そこに映し出されたのは、目を疑うような、目を覆いたくなるような、今までに見たこともない光景だった。

 そしてその後も日を追うにつれて、被害はどんどん広がり、犠牲者も数を増していった。

 生き残った被災者の方々は、寒い避難所で、水も食糧も不十分な、命の危険にさらされる程の、厳しい生活を送られていた。

 

 それなのに私は、その後の救援活動なるものに、全く参加しなかった。

 当時私は体調を崩していて、救援活動をする元気はとても無かったのだけれど…。

 でもあの時、何もできなかったことは、今でも私の心の中に、罪の意識として残っている。

 

 最近盛んに、「南海トラフ大地震」の危険性と、その対策の緊急性が叫ばれている。

 私も一人の市民として、可能な備えをしなければいけないことは分かっているのだけれど、未だ備えらしい備えをしていないというのが実情だ。

 近いうちに、なんとかしなければ!

 

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 二つ目の「1月17日」は…私の長兄の命日。

 私は7人兄姉の末っ子で、上2人が兄、続く4人が姉だ。

 長兄と私は16も歳が違い、私がものごころついた頃には、兄はもう家から離れて、学校に行ったり仕事をしたりしていた。

 なので、幼い頃の兄との思い出は少ないのだけれど、お正月などに兄が帰省した折、カメラ好きだった兄に写真を撮ってもらったり、ふざけて遊んで

もらったりしたのは、よく覚えている。

 兄は仕事の関係もあって、両親の家を出て家庭を持ったので、家に帰るのはお正月やお盆だけだったけれど、兄には最後まで、長男として責任を果

たさなければいけない、という思いは強くあったと思う。

 母が89歳で逝き、父が96歳で天寿を全うした時も、当然ながら、葬儀を始めとする様々な事後処理を、きちんと果たしてくれた。

 その兄は、父よりも母よりも短い、80年足らずの生涯だった。

 離れて暮らしていたので、詳しいことは分からないけれど、もう少し長く生きて、やりたいことがあったのではと思う。

 自分が歳を重ねれば重ねるほど、亡くなった人に対する思いは強くなるように思う。

 1月17日は、震災の犠牲者に祈りを捧げるとともに、亡き兄を忍ぶ一日でもあった。

 

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 最後の「1月17日」は、私の仕事仲間だったIさんのお誕生日。

 仕事仲間と言っても、Iさんと私とは20も歳が違う。

 私はとっくに仕事を辞めているが、彼女はまだ仕事中。

 その彼女は、とても有能な人なのだけれど、ここ数年病気で苦しんでおられる。

 最近彼女との交流は途絶えがちだけれど、彼女のことは、常に気になっている。

 どうか、彼女の病いが少しでも良くなり、彼女がご自分の優れた能力を発揮できる日が、一日でも早く来ますように♪

 そう祈りつつ、今年は彼女へ、ハッピーバースデイのメールだけ送った。

 

 

 

 

 

 

 


今年初めての、“梅田”と“難波”

2013-01-20 09:22:00 | 日記

 前から悪かった目が最近ひどくなり(お医者さんには行ってます)、パソコンを開けるのが億劫になっている。

 そのため、長い間、ブログをさぼってしまった。

 まあ、書くこともそんなになかったのだけれど‥。

 

 今年になって初めて“梅田”に出たのが、14日。 15日には“難波”に出た。

 それまでは、中津界隈をうろついたり、梅田や難波を通過して別の場所に行ったりだった。

 

 14日の梅田は、友人Mさんとの「新年会」というか、「お喋り会」。

 久しぶりに、阪急32番街27階にある「グランド白楽天」で、食事した。

 結構豪華なランチメニューが割引価格だったので。

 

 いつものとおり、食事中は写真を撮るのも忘れて、食べることとお喋りに夢中だった。

 最後のデザートになって、ちょっと一息ついた感じになって、写真を撮る気になった。

 写真ではうまく撮れてないけど、見た目もなかなかキレイだったので。

               

 

 デザートは、杏仁豆腐とパイ。

 私は、パイは、口の中でモサモサするので、余り好きではないけれど、ここのパイはとっても美味しかった。

 もちろん、杏仁豆腐も。 

 食い気とお喋りに夢中なあまり、写真に撮れなかった5種類の料理も、それぞれに美味だった。

 

 次は、グランド白楽天の窓から眺めた大阪のビル群。

 左側が帝国ホテルとOAPビル、右端に大阪ビジネスパークの一部が見える。

 バックは雲のかかった生駒山。

                

 

 

 32番街のビルから外に出ると、阪急百貨店のショウウインドウは、お正月飾りだった。

                  

 

 Mさんと私は、食事の後喫茶店にも入って大いにお喋りし、今年初めての「お喋り会」は、楽しく過ぎていった。

 

 

 

 明くる15日は、高島屋で行われている「現代書道二十人展」を、一人で見に行った。

                

 

 書道は、私は自分で書くのは大嫌い!というか、要は上手く書けないから好きになれない。

 以前必要に迫られてNHK文化センターの書道教室に通ったこともあるけれど、結局長続きしなかった。

 でも、見るのは結構好きだ。

 書道に関する知識は無いけれど、絵を見るような感覚で字も見て、これは好き!とか、あれはあまり好きじゃない!とか、無責任に言うのが好きなの

だ。

 

 今回は、「現代書道二十人展」ということなので、現在活躍中の書道家の、常識に捉われない面白い書の世界を堪能できると、期待していた。

 でも、(書道のことが皆目分からない私が言うのははなはだ失礼だけれど)今回の展覧会で、私がメチャメチャ感動できる書には出会うことができ

なかった。

 もちろん、いいなあ!と思う作品は何点かあったけれど。

  (この偉そうな態度、ほんとにゴメンナサイ!)

 

 

 書道展を観終わった後、同じ高島屋のレストラン街で遅い昼食をとった。

 その後、傘寿の姉に贈るプレゼントを探しながら、デパートをかなり長時間ブラついた。