私にとって、「1月17日」という日は、3つの意味で忘れがたい日だ。
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一つは、もちろん、18年前の、あの「神戸・淡路大震災」の日として。
だが私には、「神戸・淡路大震災」について、語る資格は全くない。
1995年1月17日、午前5時46分、寝ている私も飛び起きるほどの激しい揺れが、私のマンションを襲った。
すぐに、停電もした。
でも私の部屋がマンションの3階だったこともあってか、家具が倒れたりすることは全くなかった。
私は、一応玄関まで出て玄関の戸が開くかどうかは確かめたが、それ以外は何もせず、「これ位だったら大丈夫!」と、又布団に潜り込んだ。
私がそう判断したのには、私のそれまでの地震の経験が関係していた。
若い頃友人数人と東北地方を旅していた時、旅館の2階で凄い揺れに襲われ、パニックに陥ったことがある。
けれどその時、結局被害はなく済んだのだ。
その経験から考えて、今回の地震もそれを上回るものではない、と私は勝手に判断したのだ。
布団に潜り込んだ私のもとに、姉や何人かの友だちから、切羽詰まった声で、電話が掛かってきた。
私は事も無げに「大丈夫、大丈夫!」と答えた。
事態の深刻さが分かったのは、電気が回復してつけたテレビに、次々と映される悲惨な映像を見た時だった。
「エッ、こんな事が起きるの!?」
そこに映し出されたのは、目を疑うような、目を覆いたくなるような、今までに見たこともない光景だった。
そしてその後も日を追うにつれて、被害はどんどん広がり、犠牲者も数を増していった。
生き残った被災者の方々は、寒い避難所で、水も食糧も不十分な、命の危険にさらされる程の、厳しい生活を送られていた。
それなのに私は、その後の救援活動なるものに、全く参加しなかった。
当時私は体調を崩していて、救援活動をする元気はとても無かったのだけれど…。
でもあの時、何もできなかったことは、今でも私の心の中に、罪の意識として残っている。
最近盛んに、「南海トラフ大地震」の危険性と、その対策の緊急性が叫ばれている。
私も一人の市民として、可能な備えをしなければいけないことは分かっているのだけれど、未だ備えらしい備えをしていないというのが実情だ。
近いうちに、なんとかしなければ!
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二つ目の「1月17日」は…私の長兄の命日。
私は7人兄姉の末っ子で、上2人が兄、続く4人が姉だ。
長兄と私は16も歳が違い、私がものごころついた頃には、兄はもう家から離れて、学校に行ったり仕事をしたりしていた。
なので、幼い頃の兄との思い出は少ないのだけれど、お正月などに兄が帰省した折、カメラ好きだった兄に写真を撮ってもらったり、ふざけて遊んで
もらったりしたのは、よく覚えている。
兄は仕事の関係もあって、両親の家を出て家庭を持ったので、家に帰るのはお正月やお盆だけだったけれど、兄には最後まで、長男として責任を果
たさなければいけない、という思いは強くあったと思う。
母が89歳で逝き、父が96歳で天寿を全うした時も、当然ながら、葬儀を始めとする様々な事後処理を、きちんと果たしてくれた。
その兄は、父よりも母よりも短い、80年足らずの生涯だった。
離れて暮らしていたので、詳しいことは分からないけれど、もう少し長く生きて、やりたいことがあったのではと思う。
自分が歳を重ねれば重ねるほど、亡くなった人に対する思いは強くなるように思う。
1月17日は、震災の犠牲者に祈りを捧げるとともに、亡き兄を忍ぶ一日でもあった。
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最後の「1月17日」は、私の仕事仲間だったIさんのお誕生日。
仕事仲間と言っても、Iさんと私とは20も歳が違う。
私はとっくに仕事を辞めているが、彼女はまだ仕事中。
その彼女は、とても有能な人なのだけれど、ここ数年病気で苦しんでおられる。
最近彼女との交流は途絶えがちだけれど、彼女のことは、常に気になっている。
どうか、彼女の病いが少しでも良くなり、彼女がご自分の優れた能力を発揮できる日が、一日でも早く来ますように♪
そう祈りつつ、今年は彼女へ、ハッピーバースデイのメールだけ送った。
過去を積み重ねるほどに、悲しみとの遭遇も積み重ねられる。 悲しいけれど避けられない~それが人生なのかも・・・。
(阪神大震災の日の朝のことが、鮮明に甦りました。)
お友達が一日も早く快復されますよう、心からお祈り申し上げます。
忘れないことが大切なのにネ(もちろん忘れたわけではないですが…)
まあちゃんがおっしゃるように、身体を大切にして日々を送ります。もちろん、まあちゃんもネ。