鼠丼

神の言葉を鼠が語る

<766> 夢での出来事と現実での出来事の違いとは

2021-10-29 18:41:41 | 日記

 毎度!ねずみだ。

 私は夢の内容を憶えている事が多い方だと思う。

 夢を見るタイミングにもよるのだろうが、朝起きて「はて、何か夢を見たような気がする。」という事よりも「こんな夢を見た。」というほうが多い。そのうちのいくつかは不思議なことに何年経っても憶えている。

 こんな事を書きだすと「ねずみさんはもしかしてアレな人になってしまったのかしら。」と心配する方がいるだろう。どうか心配しないで欲しい。ねずみさんはいきなり「アレな人」になったわけではなく、生まれてこの方ずっと「アレな人」なのだ。こんな「アレな人」と一緒になった妻には申し訳ないが、私が「アレな人」なのを見抜けなかった時点で諦めるべきだ。ええい、何を書いているか分からない。

 さて。

 これから起きる事に胸を高鳴らせる時期はとっくに過ぎ、時として突然心臓が高鳴る(それは不整脈だ)時期に差し掛かっている私には、過去の思い出のストックが多くなってきている。過去に起きた事を思い出し「ああ、あんな事があった。」と思い出すのが楽しい時間と感じる年齢になった。これでは完全に枯れた老人だ、と嘲笑う人がいるかもしれないが、案外皆もそうなのではないか。
 布団の中でうつらうつらしながら私の脳みそは思い出の引き出しを開け、手を突っ込んでは色々な思い出を取り出しては眺め、また引き出しに戻す。
 脳みそが半分ほど眠りの世界に浸かっているからだろう、引っ張り出した思い出が現実に起きた過去なのか夢の中で勝手に作り出した過去なのか、分からなくなってしまう時がある。皆さんにはそんな体験は無いだろうか。
やはりねずみさんが「アレな人」だから特別なのだろうか。

 夢に関しては過去多くの人たちが分析を試みている。古くはフロイトやユングが夢に無理やり意味を持たせたり分析や体系立てを試みたが、結局のところ実体験をもとに脳みそが記憶のおもちゃ箱から色んな断片を引っ張り出して、一本の映画のように目の前に気ままに再現してくれる、という結論に至る。夢の「意味づけ」はまだ研究途上で良くわかっていない。
 
 時々とても幸せな夢を見る時がある。
 それは決まって自分がまだ幼くて両親の愛情に包まれていた頃のものである。天国に行ってしまった父も、腰がすっかり曲がり痴呆が徐々に進んでいる病床の母もその夢の中では若々しく、そして笑っている。はるか昔に死んでしまった柴犬ですら、楽しそうに走り回っている。先日もそんな夢を見た。
 そんな夢を見終わった後は、目が覚めても暫くその幸せな時間に浸っていたいと願う。
 布団の中でうつらうつらしている時、脳みそが記憶の引き出しからたまたま引張り出した記憶が実際の記憶ではなく「かつて見て、そして憶えていた夢の内容」だった場合、私の脳みそは「なんだ、これは現実に起こった事じゃないよ」とばかりに「夢の記憶」を引き出しに戻したりはしない。私が自主的に戻さないのではなく、半分寝ている脳みそが勝手にそうするのだ。
 
 ここまで書いているとお分かりになるだろうが、私は、この瞬間も病院のベッドの上でうつらうつらしている母親が(実際の楽しかった経験であろうと、夢の中の楽しかった経験であろうとどちらでも良いので)楽しい思い出に浸りながら日々を過ごしてくれていれば良い、と日々願っている。
 親父は好き勝手に生きてあの世に行ってしまったが、残されたお袋はしょっちゅう骨折して入退院を繰り返しすっかり腰は曲がり。コロナのせいで息子にも会えないままリハビリ病院のベッドの上。食事とリハビリ意外は起きているのか寝ているのか分からない状況だ。
 親父とゆっくり毎日を過ごし、親父の面倒を見るという彼女のアイデンティティはいきなり奪われ、彼女は文字通り「もぬけの殻」になってしまった。生きる目的も意味も無くしてしまったのだ。なんと残酷な事だろう。世界中にあふれている当たり前の現実だが、残酷という言葉以外に当てはまる言葉が見当たらない。

 そんな母親の思い出の引き出しには(現実であろうと見た夢であろうと)楽しいストーリーが溢れんばかりに詰まっていれば良い、と彼女の息子は毎日のように考えている。
 そうして私は今週も便せんに向かって「お袋、憶えているかな。こんな事があったな。あの頃は楽しかったよ。」と書き綴る。

 じゃ、また次回。