なぞの旅人スーのブログ

鉄道、旅行、花祭り、その他日記にしたい事を書いていきます。実際の面識が無い方からのコメント、歓迎。荒らしや誹謗中傷は×。

「かぐや姫の物語」 感想

2014-02-25 20:57:33 | 日記

 前から観たいと思っていた「かぐや姫」を近郊シアター上映終了日手前で鑑賞してきた。僕は頭が良くないので、観ただけでは色々考えることができなかった。そこで、前回の「風立ちぬ」同様、色々な人の感想、説を読んで、自分なりの考えも加え、ここで述べようと思う。
 まず、一番の考えテーマであった「かぐや姫の罪と罰」についてであるが、これはほとんどの人が言っている通り、地球での生の営みに憧れたかぐや姫が、それを否とする月の世界から罪とみなされ、罰として地球の人間の世に送られ、憧れた地球で「生きること」が耐えられるものではないと体感させられるということであろう。子どもの頃は穢れがなく、それはかぐや姫が川に飛び込む時に裸になったり、フルチン(笑)の男の子がいたりする絵が象徴していると思う。しかし、急成長して初潮(女性の生理は穢れの象徴の1つである)を迎え、「なよたけのかぐや姫」と名付けられた晩餐や5人の殿方の偽りの求婚といった人間の醜さに触れ、ついには自分の無理難題のせいによってその中の1人が命を落とし、自らも穢れてしまう。ついには帝という大きな権力に襲われることで耐え切れなくなり、月に助けを求め、そこで自分がどうしてここに来たのかを思い出す。
 さて、ここからが準自論。では、穢れは持つこと自体いけないものなのだろうか?それは違うと思う。古の人は人間が穢れを持つことを当然のこととみていたと思う。で、蓄積された穢れをリセットする機会を禊とかの潔斎の儀式、煩悩を払う除夜の鐘つきなどとして設けたんだと思う。僕が通っている花祭りもその1つだね。穢れは全否定されるものではないと月に助けを求めた後に悟ったかぐや姫であるが、時すでに遅しだったのである。
 この映画鑑賞の直前、このメッセージに似たドラマを観た。それは「明日ママがいない」である。施設長の「魔王」は子ども達に枕を持って集まる様に指示する。そして、「胸に受け止めるクッションを、その心に持ちなさい。世界の酷いことを受け止められるように。それができる人間は、世界の美しさも知る。」と教え諭すのである。
 で、これが超オリジナル論。「まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ/まわって お日さん 呼んでこい まわって お日さん 呼んでこい」というわらべ歌をかぐや姫や山の子どもなどが歌うシーンが多々あるが、太陽は求められているけど月って求められてないよね?それに対して月がやっかんだのかも(笑)
 他人の説でもう1つ目にとまったものを。それは心理学の世界が絡んでいるという説である。僕は学生時代に心理学を専攻したので、それで関心を持ったのであろう。全然学んだことを活かしていないけど(汗) 都の屋敷の裏にあった庭を「箱庭療法」という説があったり。その庭がある山に暮らしていた時と変わらない家(内部含む)、かぐや姫を殿中に迎える時は高貴な格好になったけど、以降はまた山の時を変わらないお婆さんはかぐや姫の心の拠り所であった。
 で、じゃあ「心理学の世界と当映画の世界との関連は何か?」であるが、僕は「フロイトの心的装置理論」だと捉えた。これは人間の精神構造を「エス(欲望を充足しようとするもの)」、「超自我(倫理、ルールなどで欲望を抑圧するもの)、「自我(エスと超自我を調停するもの)」の三層からなるとする論である。そして、それらは成長過程において「エス」→「自我」→「超自我」の順に現れてくる。都に到着した直後までのかぐや姫は「エス」である。美しい着物に喜び、殿中を駆け回る。教育係がつき、かぐや姫は教育係の前ではおてんばだが、竹取の翁の前では見事に琴を弾いたりする。これは「自我」である。ここまでは順調なのであるが、「高貴な姫はこうあるべき」とか「高貴な世界では身分の高い男性と結婚することが幸せなのである」とかいう「超自我」に押し潰されたことでかぐや姫は精神バランスが崩れ、悲鳴をあげてしまったのであろう。
 あとは「風立ちぬ」の「ピラミッドがある世界と無い世界」と共通した世界があるという説にも共感した。またこの様に難しいことを考える機会を持たせてくれる映画に出会いたい。
 

 

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